30代だった1970年代、ひたすら裏方に徹し、雌伏の時代を過ごした小沢一郎だが、80年代に入ると、いよいよその剛腕が唸りを上げ始めた。
1982年11月、中曽根康弘内閣が発足する。キングメーカーとして君臨する政界最高実力者・田中角栄の影響が強かったことから「田中曽根内閣」と揶揄された。その言葉を象徴するかのように、田中の〝秘蔵っ子〟である小沢が同年12月、自民党総務局長に40歳で就任する。史上最年少だった。
中曽根が絶賛「名医の手術を見ているよう」
総務局長は、選挙を現場で差配、指揮する要のポストである。当時は選対委員長がないため、選挙の責任者である幹事長の下で、擁立作業から情勢分析まで、実務は全面的に総務局長が取り仕切っていた。
小沢はまず、83年4月の統一地方選で勝利し、さらに同年6月の参院選で鮮やかな手腕を見せた。この参院選は比例代表制が初めて導入された選挙だった。そこでの最大の課題は候補者の「名簿順位」だった。
小沢は獲得党員数、他候補への応援回数など客観的な「数値」で候補者に順位をつけ、「現職を優先せよ」とする派閥領袖らの介入を最小限に抑えた。田中派偏重との批判もついて回ったが、最終的に小沢の持ち込んだ基準に説得力があり、名簿は原案通りに落ち着いた。幹事長の二階堂進が一切の実務を小沢に任せた点もプラスに働いた。参院選では改選議席を上回る68議席を獲得し、中曽根は勝利宣言する。小沢は国政選挙の指揮官として結果を出したのである。