さらに、小沢の存在がクローズアップされる決定的瞬間が訪れる。83年8月7日に投開票された衆院京都2区の補選である。2議席をめぐって7人の候補が争うことになったこの補選に、自民党は谷垣禎一、野中広務の新人2人を公認、擁立した。革新が強い京都での自民2人擁立は共倒れの危険があった。だが、ここで小沢が凄腕を見せた。小沢が谷垣、野中両陣営に働きかけ、自民党の組織票を2等分する作戦を展開し、見事に成功したのだ。谷垣は12万5209票、野中は12万1890票で、その差は3319票。「神業」と呼ぶにふさわしい票割りだった。

 中曽根は小沢の手腕を絶賛し、「まるで名医の手術を見ているようだ」と語った。小沢は2019年11月29日に死去した中曽根に対するコメントで、このときのエピソードに触れ「えらく褒めていただいたことを覚えています」と言及している。小沢にとっても、非常にうれしい出来事だったのだろう。

落選の危機

 総務局長として大仕事を次々に成し遂げた小沢でも、結果を出せなかったのは1983年12月の「ロッキード判決選挙」「田中判決選挙」といわれた衆院選だ。同年10月12日、東京地裁でロッキード事件の丸紅ルートの判決公判が開かれ、田中は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡された。メディアは田中を批判し、国会は田中の議員辞職勧告決議案をめぐって紛糾、空転した。中曽根は事態打開のため、衆院解散に打って出る。結果はやはり惨敗で、追加公認でようやく過半数を確保した。

 選挙期間中、小沢は司令塔として自民党本部に詰めた。本来は、幹事長の二階堂が党本部に詰めるべきであるが、田中側近の二階堂自身が苦しい選挙戦を強いられており、地元の鹿児島3区に張り付いていた。小沢が実質的に東京で衆院選を指揮したのだ。

 だが、党本部詰めの代償は大きかった。76年、79年、80年の直近3回の衆院選をすべてトップ当選してきたこともあり、油断もあった。総務局長としての仕事を優先するため、当初地元入りしない予定だったが、終盤、地元情勢が厳しいことを知らされ、選挙区に戻らざるを得なかった。結果は、定数4の岩手2区で最下位当選。しかも、次点に2711票差という僅差だった。選挙戦で政治の師である田中を擁護する発言をしていたこともマイナスに働いた。辛うじて議席を死守したものの、小沢にとって、最大の危機だったといえる。