自衛隊の海外派遣で「軍国主義者」

 1990年2月の衆院選で勝利を収め、小沢は「剛腕」の称号をほしいままにしていた。89年の参院選で自民党が大敗していたため、このころはいわゆる「ねじれ国会」だったが、小沢は補正予算案と同予算関連法案の一括処理方針で臨むなど強気の国会運営を続けた。「与野党のもたれ合い」的な国会審議をガチンコ勝負で壊そうとしたともいえる。

 一方、国際社会は激動しており、90年8月にはイラクがクウェートに侵攻し、10月には東西ドイツが統一され、91年1月には湾岸戦争が勃発する。

 怒濤の世界情勢の変化の中で、90年10月、多国籍軍に対する自衛隊の後方支援を可能にする「国連平和協力法案」が提出される。野党の反発を受けて廃案となるが、幹事長の小沢はただで引き下がらない。自民党、公明党、民社党の「自公民」3党で、自衛隊とは別に国連の平和維持活動に協力する新しい組織を発足させることで合意する。これが、PKO(国連平和維持活動)協力法につながっていく。

 小沢は一貫して「自衛隊の多国籍軍への参加は憲法上問題ない」というスタンスだった。今日の小沢の立ち位置からすると意外に思われるかもしれないが、当時は自衛隊の海外派遣を進めたことで「軍国主義者」と批判されたほどだった。