9日間で政権を樹立
細川護熙政権発足に向けた小沢の動きは、選挙戦終盤から始まっていた。後藤謙次『ドキュメント平成政治史1』(岩波書店)は「投票日直前のことだった。新生党代表幹事の小沢一郎は担当記者を前に言い放った。『自民党が220議席、保守系無所属を入れて230議席というなら自民党政権の存続はない。まあ、いいからみていろ』」とのエピソードを紹介している。投開票前から自信満々だったのである。
7月18日の投開票日以降の動きを小沢中心にまとめる。
19日 小沢が初代連合会長の山岸章に「連立政権をつくるという1点に絞る」と電話で伝える
21日 小沢、社会・田辺誠前委員長、公明・市川雄一書記長、民社・米沢隆書記長が会談。山岸同席。小沢は「羽田ではダメだ」と述べ、首相候補について一任を取り付ける
21日 民社・大内啓伍委員長「一路、非自民連立政権に向かって突き進む」と発言
22日夜 小沢が細川とホテルニューオータニで会談
小沢が「あんたが首相になるしかない」と打診、細川が事実上受諾
24日 小沢、山岸、社会・山花委員長、社会・田辺が会談
27日 社会、新生、公明、日本新党、民社、社民連らが代表者会議(さきがけが欠席)
28日午前 細川・武村正義が自民党本部を訪問して「決別」を伝える
28日午後 非自民7党が幹事長・書記長レベルの代表者会議
29日 各党党首によるトップ会談で「連立政権樹立に関する合意事項」了承
細川政権が事実上固まったのが27日なので、小沢は実質9日間で「工作」を終えている。
最大のポイントは、社会党系の総評と民社党系の同盟を合体させた連合初代委員長の山岸を味方につけ、早々に地ならしをしている点だ。しかも、羽田首班は難しい旨を伝えて社会、公明、民社の3党から一任を取り付けている。
さらに、同時並行的に、小沢は「土井たか子衆院議長」に向けた調整を行っている。本来、経歴からいえば田辺が議長になるのが筋だったが、左派対策として土井の議長就任にこぎつけたことも成功要因だった。
細川内閣は8月9日に発足した。自民の一党支配が崩壊したのである。まさに政治史上の金字塔ともいうべき歴史的な出来事となった。