「小沢調査会」と狭心症での入院

 小沢は91年4月、東京都知事選での敗北の責任を取って幹事長を辞任した。ただ1年7カ月の任期中、総選挙で勝利し、ねじれ国会にも立ち向かった。選挙と国会で汗をかき、結果を出すのが幹事長の役目とすれば小沢は合格点である。

 それだけに幹事長辞任後も権勢は衰えなかった。竹下派(経世会)会長代行に就任したからである。小沢は名実ともに竹下派七奉行の最高実力者の地位を得た。

 91年6月、自民党の「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」の初会合が開かれ、会長の小沢も出席している。後に「小沢調査会」と呼ばれ、国連軍への自衛隊の参加が可能かどうかの議論を真剣に行ったことで知られる。小沢調査会の事務局長は船田元、幹事には柿沢弘治、山崎拓、加藤紘一、鹿野道彦らが名を連ね、中川昭一もメンバーだった。

 小沢は外相や防衛庁長官はもちろん、両省庁の政務次官経験も、党の外交・国防部会長の経験もないが、外交・安全保障に関しては、明快な考えを持っていた。「集団安全保障の考え方であれば、自衛隊の国連軍への参加は可能だ」というもので、今も小沢の持論として生きている。

 自民党政務調査会で安全保障の専門家として活躍した田村重信は、『秘録・自民党政務調査会 16人の総理に仕えた男の真実の告白』(講談社)で「小沢調査会の取り組みは、いまも高く評価されている。冷戦後の安全保障について、真正面から切り込もうとしたからだ」と褒めている。

 その小沢調査会は92年2月、答申案をまとめた。PKOへの参加を経て、国連軍への協力、参加を積極的に検討すると主張した内容はメディアや永田町で大きな話題となった。選挙対策、国会運営、政局で活躍して小沢が、政策面で、しかも、縁の薄いとみられていた外交・安全保障分野で、画期的な提言をしたことは、政治家としての幅を広げた。

 小沢調査会が精力的に動き始めようとした矢先、91年6月下旬に、小沢は胸の痛みを訴えて入院する。狭心症だった。約2カ月間、永田町を不在にしたが、本人にとっては貴重な静養となったようだ。読書と映画鑑賞三昧の日々を送ったという。

 入院は別の意味でプラスの効果をもたらした。体調管理に人一倍気を遣うようになり、タバコを完全にやめ、低カロリーの食事を徹底し、酒を控える習慣を身につけたのだ。小沢はこのとき49歳。いまも健康で現役でいる秘訣は、この時に身に着けた「節制」の習慣である。