竹下派分裂から細川連立政権へ

 1992年8月、佐川急便から金丸への5億円闇献金疑惑が発覚し、金丸は10月に議員辞職する。この間、小沢は金丸に罪を認める必要はないと訴え、捜査自体に異議を唱える主戦論を展開し、副総裁の辞任で事態を収拾しようとした。しかし、梶山静六、野中広務ら「反小沢」勢力は「小沢側近たちが金丸を辞めさせて、派閥会長の座を小沢に渡すことを狙った」と批判した。小沢と梶山の対立は激化の一途をたどる。

 92年10月22日、竹下派会長に小渕恵三が就任した。小沢は竹下派から抜けることを決断する。会長ポストをこの時点で射止めていれば、自民党に残留していた可能性は否定できない。自民党でキャリアを築き、ナンバー2の幹事長まで昇りつめたが、最大派閥のトップには立てなかった。若くして出世したことに対する周囲の嫉妬はすさまじく、反小沢感情が渦巻く派内に残ることも現実的ではない。50歳、当選8回の小沢は、政治家人生最大の分岐点を迎えた。

「反小沢」の急先鋒だった野中は、竹下派と決別した小沢について、こんな見方をしている。竹下との関係、人事の問題が根底にあったとの指摘である。

「竹下さんが小渕さんを内閣官房長官にして、小沢さんを副長官にしたときに、小沢さんは心中穏やかじゃなかったと思う。『竹下はやっぱり小渕を後継者にしようとしている。自分はいくら一生懸命やっても理解してくれない』という気持ちが湧いてきたのではないかと思う」(『「影の総理と呼ばれた男」 野中広務 権力闘争の論理』菊池正史著、講談社現代新書)

 反対の見方もある。長らく小沢側近として活躍し、民主党政権の屋台骨を支えるも、最終的に小沢と袂を分かつ藤井裕久はこう断言している。

「『小沢は竹下派のトップになろうとし、その権力闘争のために政治改革を訴え始めた』と指摘される(中略)。しかし、小沢が90年当時、政治の腐敗を一掃し、強いリーダーシップを確立するためには、社会の構造と国民性を変革するための『政治改革』が必要だと、純粋に理念先行で考えていたことは間違いない。なぜなら、当時、小沢は、なろうと思えば総理になれる実力者だった。あえて、政治改革を権力闘争の武器として、虎視眈々と総理の座を狙う必要などなかったからだ」(『政治改革の熱狂と崩壊』菊池正史編、角川ONEテーマ21)

 92年12月、小沢は羽田孜らとともに「改革フォーラム21」を発足させ、小選挙区制導入を柱とした政治改革を旗印にして世論を味方につける。田中派発足以来、自民党最大派閥として20年余にわたって日本政治を動かしてきた軍団の分裂は、その後の非自民連立政権の発足に直結する。

 93年6月、宮沢内閣不信任案が提出された。小沢・羽田ら35人が不信任案に賛成し、可決される。これを受け宮沢首相は衆院を解散し、総選挙に突入する。自民党幹事長の梶山の不信任案採決の票読みが甘かったことも影響した。

 小沢・羽田コンビは新生党を結成し、55議席を獲得する。新党さきがけや日本新党も躍進し、自民党は過半数割れとなった。政治改革の熱狂を裏付ける結果だった。なお、93年の衆院選は、中選挙区制最後の選挙で、自民党では安倍晋三、岸田文雄、野田聖子、日本新党では枝野幸男、前原誠司、茂木敏充、野田佳彦、公明党では太田昭宏、共産党では志位和夫が初当選している。

◆93年7月18日投開票の衆院選の結果
自民    223
社会   70
新生   55
公明   51
日本新党 35
共産   15
民社   15
さきがけ 13
社民連    4
無所属  30
計     511

 過半数割れとはいえ、自民党が比較第1党であることは一目瞭然である。だが、この結果をみて、小沢は「非自民での連立政権樹立が可能だ」と判断する。小沢のキャリアの中で最も冴えていた時期だ。