日本初の株式会社をつくったのは渋沢栄一なのか?(出典: 財務省ウェブサイトより)

(柳原三佳・ノンフィクション作家)

「日本資本主義の父」ともいわれる渋沢栄一(1840~1931)が、新一万円札の顔となることが発表され、改めて脚光を浴びています。90余年の生涯の中で、なんと500を超えるさまざまな会社の設立に関わったというのですから、凄いことですね。

 幕末に生まれ、15代将軍・徳川慶喜に仕えていた渋沢が実業家に転身したのは、明治6年、大蔵省を辞めてから後のことです。

「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」も、明治5年に兵部省を辞め、教育に専念する道を選んでいます。方向性は異なるものの、明治新政府の官僚という地位を捨て、方向転換したという点では、渋沢栄一も佐野鼎も、よく似た経歴の持ち主といえるでしょう。

 佐野は1829年生まれですので、渋沢より11歳年上です。明治維新の年には、40歳と29歳、互いに、幕末期に外国への訪問経験がある数少ない人材として、おそらく何らかの交流があったのではないかと思われます。

日本初の株式会社をつくった小栗上野介

 ところで、今や当たり前のように使われている「会社=company」という言葉ですが、そもそも日本で初めてつくられた株式会社は、いったい何という会社だったのかご存知でしょうか。また、複数の出資者から資金を集めて「会社をつくる」という考え方は、いつ、どのように日本に入ってきたのでしょうか。

 この事実については、『幕末遣米使節 小栗忠順(ただまさ) 従者の記録』(編著・村上泰賢/上毛新聞社)という本の中に明記されていましたので、一部抜粋させていただきます。

『帰国七年後の一八六七(慶応三)年四月、上野介は日本最初の株式会社「兵庫商社」を設立した。建議書にこうある。要約すると、「こんど、兵庫(神戸)を開港するについて、これまで長崎・横浜を開いてやってきましたが、西洋各国で港を外国に開いて国の利益を得ているのに反し、日本は開港になるたびに国の損になっている。これは商人組合のやり方をとらないで、薄元手の商人一己一己の損得で貿易を行っているためである」ということである』