ここに出てくる“上野介(こうずけのすけ)”とは、佐野鼎も随行した「万延元年遣米使節」のナンバー3で、目付の役を担っていた幕臣・小栗上野介のことです。
「日本における株式会社の原型」といえば、坂本龍馬が長崎で設立した「亀山社中」の名を一番に挙げる人も多いようです。しかし、定款や役員まできちんとそろえた上で、日本初の「株式会社」をつくったのは、まぎれもなく、小栗上野介だったのです。
ちなみに、この本の著者・村上泰賢氏は、小栗の菩提寺である「東善寺」(群馬県)の住職で、小栗研究の第一人者でもあります。
小栗上野介が初めて「株式会社」というものの存在を知り、理解したのは、1860年、遣米使節として訪れたパナマで、蒸気機関車を目の当たりにしたときのことでした。実は佐野鼎も、まさにその場面に臨場していました。彼も遣米使節の随員の一人として、小栗とともにパナマの地を踏んでいたのです。
当時、パナマ運河はまだ完成していませんでした。そのため、使節団一行は太平洋側から大西洋側までの約77キロを、蒸気機関車に乗って移動することになりました。蒸気機関車のことはすでに模型などで知っていましたが、「パナマ地峡鉄道」の始発駅で巨大な本物の蒸気機関車を初めて目にした佐野鼎は、自身の『訪米日記』に、そのときの驚きをこんなふうに綴っています。
『蒸気車はマタナンと名づく。計六車を連結せり。先頭の一車は蒸気器械にして、客人を入らしめず。三人の投手ありてこれを運用せしむ。その馬力は三百馬力なり』
蒸気機関車よりも「コンパニー」に関心
線路に敷かれたレールと鉄の車輪がかみ合って走るというカラクリも、現物を見てかなりの衝撃を受けたのでしょう、細かに観察し、次のように表現していました。
『毎車床下の両側に、はなはだ厚くして大いならざる鉄の車輪数個あり。また鉄道の幅は、上の車の幅に同じくして、土地を平坦にし、その上に二條の角なる鉄の柱の如き物を置き、所々に横に細鉄柱をもって、左右に開かざる様に組み合わす。この鉄道は土地をあらかじめ相し置き、築造を始むという』
また、従者の一人である木村鉄太は、煙突からもくもくと煙を吐き上げる蒸気機関車を「火輪車」と命名し、その姿を詳細にスケッチしていました。