(柳原三佳・ノンフィクション作家)

 4月末から始まる大型連休まで、早や2週間を切りました。もう計画は立てられましたか? 今年は10連休、海外旅行を計画されている方も多いことでしょう。

 日本人にとって親しみのある海外リゾートといえば、まずハワイが浮かびますが、昨年、ハワイは日本人が移住を始めて150周年を迎え、さまざまな記念行事が行われました。

 さて、150年前といえば、1868年(明治元年)ですが、実はその8年前、「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」が随行していた万延元年遣米使節団の一行が、日本人として初めてハワイのオアフ島に立ち寄り、公式にカメハメハ国王(四世)夫妻に謁見していたことをご存知でしょうか。

大しけで急遽ホノルルに寄港

 1860年1月、使節たちはアメリカの軍艦・ポーハタン号に乗って、江戸を出港しました。その目的は、2年前の1858年に締結された「日米修好通商条約」の批准書をアメリカの首都・ワシントンで大統領と直接交わすことにありました。

 江戸湾を後にし、一行を乗せた船は、太平洋を横断しながらまずはアメリカ大陸の西海岸であるサンフランシスコの港を目指します。ところが、出航してまもなく、ポーハタン号は想像を絶する大しけに見舞われてしまったのです。

 日本人だけで77人という大所帯を収容するため、甲板上には下級従者用の小屋がしつらえられていたのですが、それらは無残にも波に打ち砕かれ、その上、積み込んだ食料も流されてしまいました。使節たちの多くは船酔いに苦しんだうえ、ずぶ濡れになり、船の上は大混乱をきたします。

 なんとか転覆は免れたものの、艦は一部が激しく損傷。さらに、しけを乗り越える際に石炭を過剰消費してしまったため、ポーハタン号は急遽、サンフランシスコへ直行する予定を変更し、オアフ島のホノルル港に寄港することになったのです。

万延元年遣米使節団の一人、木村鉄太が描いたハワイ諸島の地図。当時、ハワイ諸島は「三維斯諸島(サンドイッチ諸島)」と呼ばれていた(高野和人著、『万延元年遣米使節航米記 肥後藩士 木村鉄太の世界一周記』より)

 実は、ハワイへの上陸について、当初、使節団のトップである正使の新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)や、副使の村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)は、上級役人らしく、「日本とはまだ国交のない国なので、オアフ島への上陸は控えたほうがよいのではないか・・・」と躊躇していました。しかし、誰もが疲労していたこと、また、アメリカ側の強い勧めもあって、ポーハタン号の修理が終わるまでの間、2週間ほど滞在することになったのです。