(柳原三佳・ノンフィクション作家)
スリランカの首都・コロンボで大規模な爆破テロが発生し、日本人女性を含む多くの方が犠牲となりました。
ちょうど1年前、私は取材で同地を訪れていました。スリランカののどかな雰囲気と現地の方々の優しさに触れ、ぜひもう一度ゆっくりと旅をしてみたいと思っていただけに、今回のことは大変ショッキングな出来事でした。
「開成をつくった男、佐野鼎(さのかなえ)」は、幕末、今回のテロの現場となったスリランカ(当時のセイロン島)に立ち寄っています。1860年の「万延元年遣米使節」に続き、1861~1862年の「文久遣欧使節」にも加わり、ヨーロッパ諸国を歴訪。その途中、シンガポール経由でセイロン島にも寄港していたのです。
明治維新の6年前に、日本のサムライたちがインド洋を航海していたことはあまり知られていませんが、佐野鼎がセイロン島から江戸で待つ友人に宛てた手紙は、現在も残っています。その内容については、またの機会にご紹介したいと思います。
幕末の使節団、パスポートはあったのか
さて、今回は前回に続き、ハワイからのレポートです。
佐野鼎が随員として参加した「万延元年遣米使節団」が江戸を発って間もなく、太平洋上で大しけに見舞われ、急遽、予定を変更してハワイのオアフ島に寄港したといういきさつは、前回の記事でお伝えした通りです。
前回記事:幕末のサムライ、ハワイで初めて「馬車」を見るhttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/56142
ハワイ王国にとっては、突然決まった初めての日本人の入国です。しかも総勢77人。受け入れ側としてはどのような対応をしたのか? 当時、パスポートなどはあったのか? などなど、とっても気になるところですね。
じつは、今回の取材旅では、159年前に発行された「パスポート」なるものを、しっかり見学することができました。ハワイの公文書館に保管されている貴重な史料の数々を、一般社団法人万延元年遣米使節子孫の会のメンバーのために特別に公開していただいたのです。