松本全権委員:
「大橋さんの質問に対して、私が交渉の衝に当りましたので、はっきりお答え申し上げます」
「この日本語の引き渡しに当を(筆者注;「当たる」の誤字?)露語につきましては、十分研究をいたしました」
「先方の日本語をよく知っておる専門家とこちら側の専門家が十分協議した上に、この案文は引き渡しという案文になっておるのであります」
「この引き渡しの意味は、日本語の引き渡しの意味するごとく、単なる物理的な占有の移転を表わす言葉であります」
「従いまして、日本側といたしましては、歯舞、色丹は日本の固有の領土であって、北海道の一部であるということは、私が当初から最後まで主張いたしておるところであります」
「従いまして、引き渡しという意味は、そういう日本側の歯舞、色丹に対する建前を通して、こういう字句で十分だと考えましたので、私もこれを受諾いたしまして、この点を鳩山全権に報告いたしました上で、署名になったのでございます。かように御了承願います」
(4)筆者の所見
大橋委員の質問内容を見れば、当時、日本は「引き渡す」を主張するソ連の意図・思惑を十分に理解していたこと、およびこの「引き渡す」という言葉が将来に禍根を残すことになることを懸念していたことがうかがわれる。
一方、松本全権委員の回答は、なぜ、「返還」でなく「引き渡し」になったかを説明していない。
ちなみに、辞書を引くと返還に相当するロシア語(Возвращение)が存在する。
厳しい交渉の末に、ソ連側に押し切られたという印象である。
この背景には「もともと4島は戦前から日本固有の領土であり、ソ連が不当に占拠したものである」という日ロ間の共通認識がないところに問題があるように思える。
難しい外交交渉の場合、双方のメンツを立てるあるいは交渉の決裂を回避するために「玉虫色」の表現などで決着を図るというのが常套手段である。
件の交渉においても、両者が国内向けに説明ができる玉虫色の合意をしたものと思われる。
上記国会議論における大橋委員の「ソ連にとっては、このペレダーチという広い意味の言葉を使うことは、特別の意味を持つことになる。すなわち、歯舞、色丹を日本に渡すのは、日本の領土を日本に返すのではなく、ソ連領の一部を新しく日本に譲渡するのだという意味を表わしておこうというのである」という発言は、まさに今回のプーチン大統領の発言を予見したものである。
さらに、うがった見方をすれば、当時の政府は、4島一括返還要求が難しいことを承知しており、歯舞、色丹2島の「引き渡し」で折り合いをつけるつもりであったとも考えられる。