高齢化した元島民が語る「北方領土」、戻れないかもしれない故郷【再掲】

北海道の羅臼国後展望塔から見える国後島(2018年10月10日撮影)。(c)Kazuhiro NOGI / AFP〔AFPBB News

プロローグ
日露関係の精神分析

 日本人の対露観は日露戦争を境に大きく変化しました。一言で申せば、日露戦争前までは「恐露」、日露戦争後は「蔑露」、戦後は「反露」と大別できます。

 家庭の常備薬「正露丸」は、日露戦争当時は「征露丸」。「勝鬨橋」は日露戦争に勝利して名づけられました。

 現在の日本人の一般的性向が「反露」であることは間違いありません。今でも「ロシア憎し」と思っている日本人は多く、その根源は1945年8月9日の日ソ中立条約破棄に集約されるでしょう。

 日ソ中立条約を破棄し、ソ満国境を越境・侵攻したのが8月8日深夜から9日未明。サハリンでは1945年8月11日未明、ソ連軍は北緯50度線を南下・侵攻開始しました。

 筆者はこの事実を正当化するつもりは毛頭ありませんが、独ソ不可侵条約を破り、ドイツがソ連に侵攻した史上最大の陸戦「バルバロッサ作戦」を日本軍は知らなかったのでしょうか。

 ヤルタ会談の密約(ドイツ降伏3か月後に赤軍対日侵攻開始)は日本側も情報を掴んでいましたが、大本営は無視。

 赤軍がソ満国境を侵攻する前に日本の関東軍は既に転進しており(一部の関東軍は対ソ戦で徹底抗戦しました)、残されたのは満州開拓の居留民。この事実は何を意味するのでしょうか。

 付言すれば、関東軍はドイツ軍のモスクワ攻略戦に合わせ、シベリア侵攻作戦を準備しました。

 関東軍はソ満国境で対峙するソ連軍がモスクワ防衛戦に転用・投入される前提で作戦を立案しましたが、関東軍に対峙するソ満国境に展開する赤軍が(表面上)西に移動しなかったので、シベリア侵攻作戦は発動されませんでした。

 この時期、冬季戦用訓練を受けた赤軍はソ満国境に張りついていた軍隊のみで、この精鋭部隊はモスクワ防衛戦用に西方に輸送され、代りに徴兵された新兵がソ満国境に配置されました。