この時の江戸幕府の対応が偉かった。
当時の優秀な船大工を集め、軍艦を建造、ロシア側に贈呈。この船は「ヘダ号」と命名されました。
その間に米国は砲艦外交を以て、1854年に神奈川条約(日米和親条約)を調印します。
帝政ロシア側は焦りますが、プチャーチン提督は粘り強く、真摯な態度で江戸幕府代表の川路聖謨と伊豆下田にて交渉を続け、彼の努力は安政条約(下田条約)として結実。
時に1855年2月7日(新暦)。長崎入港以来、実に約1年半の歳月が経っていました。
明治以降における日本の対露感情
江戸幕府の末期、咸臨丸に乗り、勝海舟や福沢諭吉が訪米。大変な衝撃(今風に言えばカルチャー・ショック)を受けて、日本に帰国しました。
その後、文明開化を求める維新政府は1871年、欧米に岩倉使節団を派遣。この岩倉使節団は帰国後『米欧回覧実記』を著し、「ロシアは西欧文明社会では異質の後進国」と述べています。
これが後世の日本人の対露観に大きな影響を与えたと言えましょう。
東京外国語学校の露語学科は1885年に廃止され、東京商業学校(現一橋大学)に吸収されました。
当時露語学科の学生であった二葉亭四迷(本名:長谷川辰之助)は、抗議のため東京外国語学校を中退。「文学は男子一生の仕事にあらず」と豪語、その後10年間絶筆しました。