東京やミュンヘンのオリンピックには際立った歴史的な意味がありました。戦後復興です。第2次世界大戦後の国際秩序は「国連」つまり連合国側の文脈で進められた。その中で皮肉なことに人類史上最速最高の高度成長を遂げたのは、当時の西ドイツと日本だったわけです。

 しかしドイツも日本も爆撃で一時は都市が灰燼に帰した。そんな焼跡の町に「世界平和の芸術文化の祭典がやって来る!」というニュースは、敗戦国民だった当事の日本人にどれだけの夢と希望を与え、また現実に都市のインフラストラクチャー整備など、具体的な成長の契機を与えたことか。

 首都高速道路を筆頭とする道路整備、東海道新幹線、都心部の再開発、国際空港の整備・・・。

 20世紀後半の日本という「国の形」を基本的に整える牽引役を1964年の東京オリンピックが果たしたと言ってもも決して過言ではない。

 実は私はこの年に生まれているので、五輪自体は胎児として代々木のスタジアムに両親が行った程度で実際の記憶はありません。

 しかし五輪計画を念頭に進められた「環状7号線」沿いの「中野」という田舎に生まれ(当事は近所の農家が牛など飼っていた)、幼児期は汲み取り式だったトイレが水洗に変わり、テレビは白黒がカラーになって驚き・・・という戦後日本の成長の夢を、1964年の東京オリンピック、70年の大阪万国博覧会(Expo70)そして72年の札幌オリンピックが主導していったのは間違いないと思います。

 またこの当事、これらの行事はデザインや音楽など芸術面からも徹底した取り組みがなされました。

 私たちの分野で言えば国内では黛敏郎、武満徹、湯浅譲二、松村禎三、一柳慧、高橋悠治あるいはまだ若かった近藤譲さん、海外からはカールハインツ・シュトックハウゼンやイァニス・クセナキスといった人々が参加し、大衆受けするイベントといった観点と明らかに一線を画した「人知にとっての芸術の最前線」を問う試みが多数なされました。

 この時期に物心のついた私が、50年近く経って今もって(たぶん若い人から見ればそうとう「いまどき」ではない)「前衛」の孤塁を守るような音楽生活となった原点も、この時期のオリンピックと万博にあります。

 こうした「戦後」が決定的に変質するのが1972年、ナチスの悪夢から四半世紀余を経て待ちに待たれたはずのミュンヘン・オリンピックで発生してしまったパレスチナ武装組織「黒い9月」によるイスラエル選手団11人の殺害事件、そして冷戦下の共産圏で初めて開催された「モスクワ・オリンピック」と、その反発によって引き起こされた「ボイコット」だったと思います。

 これらは一方で開催都市への負担を増やし、他方で政治とオリンピックの特異な結びつきを強化し、1980年代以降のオリンピックが変質、端的に言えば金権体質に変質していく、大きな転機となってしまったと思います。