この間、悲願だった東西ドイツ統一などもありましたが「オリンピックで国威発揚」などする必要がない以上に、統一ドイツを含むEU経済の心臓部としてドイツは稼働し続けなければならず、五輪開催は得るものより失うものの方が大きい可能性を「ミュンヘン・オリンピック・テロ事件」という巨大な影は投げかけ続けています。
実のところミュンヘンは2018年の冬季オリンピックに手を挙げ、史上初の夏冬双方の五輪を1つの都市が開くという形で1972年のリベンジを図りましたが、韓国の平昌に敗れてしまっています。
2020年の東京である種のテロ事件が起きたら、日本で開催されるオリンピックはこれが最後になるかもしれません。少なくとも50年規模ではもう再び開かれることはない。ドイツの例が雄弁に示している通りです。
むしろ、平和がや安全が確保される限り、国家や都市が発展の契機を待っている新興国や途上国、歴史に資する場での開催が望ましいことは、ご当地エゴや営利目的と無関係にこの問題を見る人すべてが認めるところと思います。
海外の報道は、要求された賄賂をトルコ側は払わず、日本は支払い、その結果イスタンブールが敗退したとも伝えています。
上に記したような「全人類の協調発展」を願ってトルコを推していた関係者の堪忍袋に決定的な火がついて今回の英仏からのリークにつながっている可能性があると思います。と言うのも、現在のような草刈場には、五輪本来の価値も未来も何もないから。
アテネ、北京、ロンドン、21世紀に入ってから開催された五輪が、当地に残したものがいったいどんなものだったか・・・。
通貨危機の元凶まで引き起こすに至っている「五輪なるもの」そのものへの疑問すら、実のところ湧き上がっており、真に意識あるIOC中枢は十分それらに配慮しつつ、体質浄化と建て直しを図っているようにも聞き及びます。
現在国内で、とりわけメディアが宣伝広告する「運動会」ベースの議論とかけ離れた、値引きのない議論を、「サマランチ時代」の腐敗とともに引き続き考えてみたいと思います。