そしてオリンピック終了後、まさに聖火リレーの順路を逆進してオーストリアから東欧、ギリシャまで、ナチス軍は欧州の東方戦線を広げていった。そういう歴史を知らずして聖火リレーだけ見て喜んでいてはいけません。
私はクラシック系統の音楽の人間で、ロック的な音楽のあり方に疑問を持っています。と言うのも20世紀後半、全世界に普及したロックコンサートなどのポップスイベントはすべからく、ベルリン・オリンピックに端的に見られるナチス・ドイツの大衆動員情宣の模倣に端を発しているからです。
戦後、米国や英国で誕生、成長した、大型アンプを用い大規模な会場で多数の観客を動員するライブ形式は、基本的なアイデアをナチスのビジネスモデルから借用していると言われます。
実際そうすることで戦後のポップスはよく儲かり、メディアの進展とともに瞬時にして全世界に普及しました。
「大衆情宣」という大原則の上に成り立っている、そういう基本的なことを意識せずに、お祭りに陶酔するのがいかに危険か、ホロコーストを筆頭にナチスの政策がどのような結果をもたらしたかを考えれば自明なことと思います。
やや1936年のベルリン大会に紙幅を割いたのは、実はこの次に「初めてのアジアでの開催」として計画された1940年夏の「東京オリンピック」冬の「札幌オリンピック」があるからです。
幻の東京・札幌オリンピックとそのリバイバル
ナチスによるベルリン・オリンピックの次に計画されていたのは1940=昭和15年、アジアの盟主と見られていた日本で、初めて欧米以外での夏冬の五輪大会でした。
そして、これらは日中戦争、第2次世界大戦のために中止され、夏の大会はフィンランドのヘルシンキに付け替え、冬の大会はスイス、ドイツ、イタリアと幾度も付け替えられながら、結局戦争が終結するまで開催することができませんでした。
ここでの開催地の選定に、IOC(国際オリンピック委員会)の本来の精神を見て取ることができるでしょう。
フランスやドイツ、ベネルクス3国など現在のEU中枢に元来の根を持つ近代オリンピックが、再び世界大戦に突入する危機があった時期、夏の大会は連合国、冬の大会は日本からドイツ、イタリアと枢軸国の都市を開催地に、まさに古代ギリシャ以来の「つかのまの平和」を実現しようとして結局果たせなかった、涙ぐましい努力と失敗を見なければなりません。
結局、第2次世界大戦終結後の1948年にロンドン、52年にヘルシンキと夏の大会が、またスイスのサンモリッツとノルウェーのオスロで冬の大会が開かれた後、56年の冬にコルティーナ・ダンペッツォ、60年の夏にローマと旧枢軸国のイタリアが再びオリンピックの輪に加えられ、待ちに待った形で迎えたのが64年の東京夏季大会、そして72年の札幌冬季大会、そして同じく72年のミュンヘン夏季オリンピックだったわけです。
言わば30年を経てのリバイバルでした。