オーストラリア・ブリスベンの情報工学者、クレイグ・ライト(1970-)が「サトシ・ナカモト」の正体は自分である、とカミング・アウトした。大きなニュースと思います。
税制の問題に関連して、唯一最大の謎&置石になっていた「サトシ」の正体が知れたことで、これから暗号通貨は大きく動き出すように思います。そんなことも念頭に、現在進行形の「お金の問題」を考えてみましょう。
さて、ここで改めてお金の価値って、いったい何で決まってくるのでしょう?
「近代経済学」という言葉があります。正確には「ありました」というべきかもしれません。私がティーンの頃、つまり冷戦期の日本では、経済学は大きく「近代経済学」と「マルクス経済学」に二分されていました。
早くに亡くなった父が果たせなかった学問への憧憬として「経済学」のファンであった中学高校時代の私にとって「経済学」とは「マル経」と「近経」を指すもので、両者をバランスよく学びたいと子供なりの頭で思ったりしていました。
しかし、欧州に留学して冷戦期東側の実情を見て「マル経」に幻滅した経緯があります。
果たして冷戦体制の崩壊後、急速に「マル経」という分野そのものが消滅するとともに、対概念に近かった「近経」という表現も下火になり、経済学はデリケートに分類されるようになっていきました。
が、かつて「近代経済学」と言われた分野の本質はケインズ以降の経済学、より明確に特定するならケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」(1936)以降の「ケインジアン」のエコノミクスで「古典派経済学」クラシックスに対して「モダン」なケインズ経済学として「近経」が位置づけられていたように思います。
ケインズの経済学は、時期的に見ても、また米国でフランクリン・ルーズベルト大統領が推進した「ニューディール」政策の強力な後ろ盾になったことからしても「世界恐慌(1929-)」という眼前の自体と切り離しては考えられません。
端的に言えば、1930年代以降のあらゆる経済学は、当該時期のマルクス経済学を含め、「恐慌再発」をいかにして防止するかという究極の目標を持っているといっても過言ではないのです。
こうした観点はあまりに大上段、かつ大時代がかって見え、精緻な分析を旨とするプロのエコノミストが言及されることは少ないかもしれません。
しかし、いまデジタルマネーや暗号通貨、ビットコインやブロックチェーンの技術などを考えるとき、あえて改めてこうした大本の観点に立ち返って見ることにも、一定の意味があると思うのです。
いま改めて「お金」とはいったい何なのか。また「お金のクライシス」通貨危機とはいかにして起こり得るものなのか。金融に端を発する経済恐慌は、どのような政策によって回避できるのだろうか?
こうしたナイーブな疑問は「経済学の本質的課題」の1つとして、広く問われてよいと思うのです。