1970年代以降のオリンピックの変化には、少なくとも2つの構造的な要因があると思います。
1つは国際政治的な、いま1つは産業の変化による、いずれにしても構造的な背景が「開催国」を圧迫する形になっている。この問題について少し考えてみたいと思います。
テロのリスクと冷戦後期
古代ギリシャ世界で「つかの間の平和」を約束するスポーツと芸術の祭典であった「オリュンピア祭」。この間は全ギリシャが戦乱をストップさせ、ともに神々の前で賛美の競技を競い合った・・・。
そんな古代の伝統に、帝国主義列強間の緊張と対立の緩和の望みを託して立ち上げられた近代オリンピック競技会。しかし、その「平和」を正面から否定する勢力が現れました。パレスチナ・ゲリラです。
「黒い9月」を名乗るテロリスト集団は、1972年9月のミュンヘン五輪でイスラエル選手団11人を襲撃、暗殺。古代オリンピックから考えれば3000年近くに及ぶ歴史の中でも前例のない凶行に及ぶことになりました。
一度このような事件が起きてしまうと、再発防止に全力を尽くさねばなりません。テロの発生した翌1972年10月、米国コロラド州デンバーでは大規模な市民の反対運動が起きます。
1970年のIOC総会で1976年の冬季オリンピック開催地としてデンバーが選ばれていましたが、ミュンヘンでのテロ発生を受けて五輪開催が疑問視され、ついには開催返上という事態に及ぶことになります。
この結果「デンバー 冬季オリンピック」は幻となり、1976年の五輪はオーストリアのインスブルックに変更、IOCもオーストリア政府も、総力を挙げてテロ再発の防止と警備に入念な対策を講じることになりました。
祝祭という性善説に基づく建築物から、テロ防止という性悪説に基づく警備体制へというのは根本的な転換です。インフラストラクチャーから警備要員の人件費まで莫大な支出を五輪主催者は強いられることになります。
1972年「ミュンヘン+札幌」という「旧枢軸国」第2次世界大戦に敗れ、戦後の高度成長で勝利した西ドイツと日本が開催国となった五輪の折に発生した暗殺テロ以降、五輪は「セキュリティ」という観点で非常に高くつく行事に政治的に大きく変貌します 。
1976年夏のカナダ・モントリオール大会、冬のオーストリア・インスブルック大会は、従来のビジネスモデルでは対処し切れない五輪主催の問題点と、財政難を突きつけるものとなります。
1970年代はもう1つの意味で世界史の転換点でありました。