ミュンヘン五輪でテロが起きたのは、ブレトン・ウッズ体制の戦後国際金融では高度成長が支え切れず各国が雪崩を打って(暫定的なスミソニアン体制を経つつ)変動相場制に移行しつつあった時期でした。
さらにはオイルショック(第1次石油危機)で冷戦後期の国際経済が大混乱に見舞われていた時期でもあります。変動相場制と原油価格には露骨な関係がありますが、いまここでは別論にしましょう。
キューバ危機など1960年代の緊張関係を潜り抜け、1970年代はデタント、緊張緩和が国際社会の趨勢となるなか、パレスチナの緊張状態がミュンヘン五輪の悲劇を生み出す一方、もう1つの中東危機が国際社会を大きく変えてしまいます。
親欧政策を採っていたいたパーレビ王朝のイランが崩壊し、ホメイニ師率いるシーア派イスラムが実権を掌握する「イラン・イスラム革命」(1979)の勃発です。
今日に至るイスラム原理主義問題の大半は、このシーア派革命とこれに対する反動で発生した「イラン・イラク戦争」が直接の原因を作り出していると言えるでしょう。
イランと国境を接する各国には緊張が走り、東西冷戦下、東側の体制維持を絶対命題とするブレジネフ政権のソビエト連邦では、隣国アフガニスタンへの軍事進攻で共産圏の砦を守る国策を選ぶことになります。
このアフガン侵攻が、翌1980年に予定されていた「初めての共産圏での五輪開催」に直接の影響を及ぼしました。「モスクワ・オリンピック」です。
「両大国主催五輪」の失敗
「ミュンヘン五輪後」のテロ対策五輪、1980年は元来、ソ連のモスクワと米ニューヨーク州のレーク・プラシッドという両大国での開催が予定されていました。
このパワーバランスを完全に打ち崩すことになったのがソ連のアフガン侵攻とそれに続くモスクワ五輪ボイコット事件だったわけです。
冬の大会は先に述べた「デンバー」が返上、代替 地候補だった同じく米国ユタ州のソルトレイクシティも辞退したため、1932年に初めて米国で冬季五輪を開いたレーク・プラシッドが40年前の施設を有効利用して安価な五輪を目指します。
1976年はインスブルックでの開催、その後誰も手を挙げることなく80年初頭の冬季五輪は無競争で「2度目のレイクプラシッド」に決定した経緯がありました。
このレイクプラシッドに先立つ1980年1月、米国のジミー・カーター大統領は「モスクワオリンピック・ボイコット」を主唱、結果的に50か国ほどがモスクワオリンピックに不参加となります。