安芸毛利氏との戦い
その後、秀吉は天下人の道を歩みはじめた信長に従って各地を転戦した。甲斐の武田勝頼や越前の一向一揆などを相手に死闘を繰り広げた。
天正4年(1776)7月、中国地方の安芸毛利氏は、水軍を派遣し、摂津国木津川で織田勢を撃破し、織田と敵対する大坂本願寺に兵糧を入れた。
織田氏と安芸毛利氏は、元は軍事協力を結び、友好関係にあったが、この一件から、両氏は戦争に突入することになる。
天正5年(1577)、信長は秀吉を中国地方攻略の司令官という大役に抜擢し、毛利氏の平定にあたらせた。
同年10月23日、秀吉は毛利氏の勢力範囲である播磨国へ出陣する。
11月には播磨福原城(兵庫県佐用郡)、12月には上月城(同)などを攻略し、信長に賞された。
天正6年(1578)2月に、播磨三木城(兵庫県三木市)の別所氏が毛利氏方に付き、織田に反旗を翻したため、秀吉は3月下旬に三木城の包囲を開始し、兵糧攻めを進める。いわゆる「三木の干殺し」である。
三木城攻めは天正8年(1580)正月に、別所氏が降伏するまで続いた。
天正9年(1581)10月には、毛利方の重要拠点である因幡鳥取城(鳥取市)を開城させ、天正10年(1582)5月8日には、毛利方の城将・清水宗治が守る備中高松城(岡山市)を包囲し、有名な水攻めを始める。
すると、備中高松城の救援に、当主の毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らが出陣してきたため、秀吉は信長に応援を求めた。
秀吉の報告を聞いた信長は、明智光秀らに出陣の準備を命じている。信長自身も、中国地方に向かうつもりであったという。
しかし、信長が現われることはなかった。
同年6月2日、本能寺の変が勃発し、信長が死去したからだ。