姉川の戦い

 帰京した信長は態勢を立て直し、元亀元年(1570)6月、裏切った浅井氏への報復として、徳川家康らの軍勢とともに、浅井氏の居城である小谷城(滋賀県長浜市)の周辺に攻め込んだ。

 浅井氏の救援のため朝倉氏の軍勢も出陣し、織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍が姉川湖畔で激突。姉川の戦いが勃発した。

 この戦いは織田・徳川連合軍が勝利を収めたが、浅井・朝倉を滅ぼすことはできなかった。

 姉川の戦い後、織田軍は、浅井方の横山城(滋賀県長浜市)を攻略している。

 交通の要所に位置し、浅井氏の本拠・小谷城から6キロメートルしか離れていない横山城は、重要な軍事拠点であった。

 その横山城の城将に、信長は秀吉を抜擢している。

 秀吉は横山城将として、管轄地域の守衛や北近江の一向一揆の平定などを行ないつつ、上洛して京都支配の政務にもあたった(以上、羽柴亜弥「羽柴秀吉――バランス感覚に長けた信長家臣団の要」)。

一国一城の主へ

 同年(元亀元年)12月には、将軍・足利義昭の斡旋により、信長と浅井・朝倉両氏はいたん和睦するも、翌年には戦いが再開された。

 元亀3年(1572)7月、信長は横山城に陣を置き、浅井氏の本拠・小谷城を包囲する。

 この時、秀吉は佐久間信盛や、山口馬木也が演じる柴田勝家ともに小谷城近くの虎御前山(とらごぜやま)に入り、城下町を攻撃し、浅井氏の重臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)の山本山城(長浜市)を攻め、戦果を挙げた。

 同年8月、虎御前山に砦が築かれると、秀吉が城番に任じられている。

 元亀4年(1573)には、信長と将軍・足利義昭が対立。

 いったんは和睦するも、足利義昭は宇治槙島城(まきしまじょう/京都府宇治市)に拠り、同年7月3日に挙兵した。

 信長はすぐに槙島城を攻め、秀吉もこれに加わっている。

 足利義昭は降伏し、信長は義昭を京都から追放した。秀吉は、義昭の道中の警護を任されている。

 この直後、秀吉は「木下藤吉郎」から「羽柴藤吉郎」へと名を改めたとみられている。

 同年8月、秀吉が山本山城の阿閉貞征を降伏させたのを機に、信長は北近江に侵攻した。

 浅井氏の救援に来ていた朝倉義景が率いる軍勢が越前へと退陣をはじめると、信長は秀吉らとともに朝倉軍を追撃して、越前国へ侵攻。朝倉氏を滅亡させた。

 その後、信長の軍勢は浅井氏攻めに反転。北近江に戻り、小谷城を包囲する。

 同年9月1日には浅井長政が自刃し、浅井氏は滅亡した。

 秀吉は功績を賞され、小谷城および、浅井氏旧領の北近江三郡(伊香、東浅井、坂田)が信長から与えられた。ついに、一国一城の主となったのだ。

 秀吉ははじめ小谷城を居城としたが、琵琶湖畔の交通の要所「今浜」に新たに城を築きはじめる。

 天正3年(1575)夏に城が完成すると入城し、今浜の地を「長浜」と名を改めた。