教育界で活躍

 その後、本庄太一郎は明治19年(1886)9月~明治22年(1889)3月まで東京府師範学校に勤務し、明治22年4月~明治23年(1890)7月までは、帝国大学文科大学の特約科(帝国大学の文科大学内に臨時で設置された教育学科)で、ヘルバルト主義教育を研究した。

 明治23年7月~明治25年(1892)8月までは東京府尋常中学校で教務主幹を勤め、明治25年8月~明治26年(1893)4月までは、東京府尋常師範学校に勤務したという(以上、校史編集委員会編集『京一中洛北高校百年史』)。

 明治26年4月~明治32年(1899)6月までは京都府尋常中学校の校長、明治35年(1902)頃には東京高等師範学校教授に就任した。

 明治39年(1906)には、公費でヨーロッパ視察に出ている。

 明治40年(1907)には、台湾において、台湾総督府国語学校長と台湾総督府中学校長となった(湯田拓史「「文検合格者」のライフヒストリー 本荘太一郎の経歴」神戸大学教育学会編『研究論叢』20号(2014-6)所収)。

 大正3年(1914)には、長野県立松本中学校に校長として赴任したが(松本深志高等学校同窓会『長野県松本中学校・長野県松本深志高等学校九十年史』)、排斥運動により、退職している。

 本庄太一郎は島根に帰郷し、大正6年(1917)4月の第13回衆議院議員選挙の時、地元の松江市から立候補したが、次点で落選。

 その後、大正8~14年(1919~1925)まで、神戸市教育課長を務め、昭和2年(1927)1月に、この世を去った。