全科目合格を果たす

 一方、本庄太一郎は学業を継続し、明治15年(1882)7月に、二科の最初の卒業生となった。

 同年8月19日、本庄太一郎も授業手伝に任命され、西田千太郎とともに、母校・松江中学で授業を行った。月俸は5円だったという。

 西田千太郎は松江中学に勤め続け、明治14年(1881)1月に教諭補助となった。月俸は6円だった。明治16年(1883)3月には、月俸8円に昇給している。

 対して本庄太一郎は、明治17年(1884)8月、島根県第二中学校(同年3月に浜田中学から改称)に転任した。

 しかし、西田千太郎も本庄太一郎も、明治18年(1885)7月に職を辞し、文部省の中等教員検定試験の合格を目指して、共に上京している。

 二人とも、正規の教師になりたいと望んだのだろう。

 上京中、本庄太一郎がどのような状況下にあったのかは定かでない。

 だが、県から15円の補助を得て、上京後はイギリス人やアメリカ人から英語を習うなど勉学に励んだ西田千太郎と、ほぼ同様だったと推測されている。

 明治19年(1886)5月に行われた中等教員検定試験において、本庄太一郎は「英語」、「心理」、「教育」、「動物」、「植物」の五科目を受験した。

 その結果、英語は3位、心理は2位、教育は6位、動物は1位、植物にいたっては受験者17名の中で及第は彼一人という素晴らしい成績で、全科目合格を果たしている。

 一方、西田千太郎は、「英語」、「心理」、「教育」、「経済」、「論理」の五科目を受験した。

 英語以外の四科目は1位で合格するも、英語は不合格であった(以上、松江北高等学校百年史編集委員会編『松江北高等学校百年史』)。