4つの登山口に引かれた女人結界

 大峯山は修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)が開いたとされる修験道の聖地である。吉野から熊野に至るおよそ170キロメートルは「大峯奥駈(おくがけ)道」として知られ、山伏による荒行の場であった。大峯山は、断崖絶壁を含む難所続きで、古くから千日回峰行の舞台としても知られている。

 この険しさゆえに、女性が立ち入ることの危険性も女人禁制の理由の一つになったと考えられる。

大峯山寺がある山上ヶ岳(後方)を目指す山伏ら。2019年撮影(写真:共同通信社)

 明治政府は1872(明治5)年、女人結界解禁の太政官布告と時を同じくして、修験道を廃止する。そして天台宗・真言宗などに統合した。金峯山(きんぷせん)寺は廃寺処分となり、修験者(山伏)は廃業を迫られた。これは、修験道は神仏習合色が極めて強い宗教であり、当時の神仏分離政策にそぐわないとみなされたからだ。

 修験道の再興の動きが出るのは明治末期になってからである。

 先述の布告を受け、大峯山を管理する地元講社が話し合い、女性の入山が検討された。多くの講社は女人解禁に転じたが、山上ヶ岳の西にある洞川(どろかわ)の講社が猛反対をし、山上ヶ岳は女人禁制が維持された。

 この山上ヶ岳の尾根、そして山頂にある大峯山寺へとつながる4つの登山口に、女人結界が引かれている。洞川では1970(昭和45)年に、それまでの大峯山登山口であった母公堂で引かれていた女人結界が、バス道の整備により奥地に移された。そうしないと、母公堂で女性のバスガイドを下ろさなくてはならないことなどが理由である。