郷中教育とはどのようなものだったのか?

鶴丸城 (鹿児島城) の復元された御楼門  写真/show999/イメージマート

 郷中教育の重要な特徴は、カリキュラムや先生が存在しなかったことである。二才を中心に、何をどう学ぶか、どのような掟を定め、守らなかった者にどのような罰を与えるかまで、自分たちで取り決めており、試行錯誤を通じて強い自立心を養った。

 また、郷中教育は極めて実践的であった。いわゆるケーススタディを重視し、「隣の郷中が難癖をつけてきた場合の対処法」といった身近なテーマから、「もしも琉球に異国船が来航して居座ったら、どう対応するか」といった政治的な問題まで、徹底的に議論された。これは、海洋国家として常に外国からの侵略を肌身で感じていた強烈な危機感に基づき、最善の結果を導く判断力や決断力を養うための実践の場であり、薩摩藩特有のリアリズムを生むことにつながった。

 郷中同士は互いにライバル意識を抱き、相撲や山坂達者(長距離踏破)などで切磋琢磨した。血気盛んな若者たちの郷中間のいさかいも少なくなく、刃傷沙汰も記録に残るほどであった。西郷自身も、13歳の時、郷中間の喧嘩で右腕を斬られ、腕が曲がらなくなったため剣の道を諦めざるを得なかったと伝えられている。このため武勇伝は全く残っておらず、彼はもっぱら勉学に打ち込んだとされるが、相撲は終生変わらず好きであった。

 一つの郷中が一つの国のような感覚となり、周辺の郷中とどう付き合うかを考えることは、そのまま政治・外交交渉の訓練ともなっていた。薩摩藩が他藩を抜きん出た政治力や外交力を有した源泉は、この郷中教育に見出すことができる。西郷隆盛は、郷中教育で養ったリーダーシップ、判断力、決断力、政治力、交渉力を駆使し、幕府や他藩と巧みに距離を取りながら、難解な幕末政局の舵取りを行ったのであったのだ。