西郷のキャリア形成と迫田大次右衛門の影響
弘化元年(1844)、18歳になった西郷隆盛は郡方書役助の役職に就き、4石の給与を得るようになった。郡方とは、農村を回って村役人を監督指導し、作柄を調査しながら年貢を取り立て、灌漑施設の整備を行うなど、農政全般を担当する役職である。西郷は後に書役に昇進し、27歳までの10年間、この農政の仕事に励んだのだ。
一方、大久保利通は西郷より2年遅れの17歳で、藩庁で文書を扱う事務官僚の末端である記録所の書役助となり、4年間務めた。西郷が農村という現場で農民と直接接する封建領主権力の為政者の末端であったのに対し、大久保は藩庁で文書を扱う事務官僚の末端であった。この初期キャリアの違いは、その後の政治家としてのスタイルに影響を与えたと考えられている。
薩摩藩士時代の大久保利通
西郷が最初に仕えた奉行は迫田大次右衛門であったが、彼は気骨があり実行力があり、農民を慈しむ豪傑であった。嘉永2年(1849)ころ、凶作であっても年貢の取り立てを厳しく行うよう藩庁から指示があった際、迫田は、「虫(藩庁)よ虫よ、五ふし草(農民)の根を絶つな、絶たばおのれも共に枯れなん」という言葉を残して辞職した。
この言葉は、「藩庁(虫)よ、農民(五ふし草)の根を絶つような無理な年貢取り立てをするな。もし根を絶って農民を死に追いやれば、その藩(虫)も共に立ち行かなくなり、枯れてしまうぞ」という意味である。そこには、藩政への痛烈な警告と批判が込められていた。
この事件は西郷に終生の感銘を与え、西郷自身もこれ以降、時々この「五ふし草」の言葉を暗唱したとされる。西郷は迫田に勝るとも劣らず藩庁の苛政を憤り、意見書を提出し続けたのだ。