「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案(1985年)」の概要

 すでに戦後80年を経たがスパイ防止法はいまだ制定されていない。

 ただし、1980年代前半には、宮永スパイ事件(1980年)やレフチェンコ証言(1982年)などの一連のスパイ事件があり、スパイ防止法の必要性が自民党内において活発に議論されるようになった。

 当時の中曽根総理は、国会答弁で「日本ぐらいスパイ天国であると言われている国はない(昭和60年第102会参議院決算委員会)」と述べている。

 このような中、我が国においてもスパイ防止法案が衆議院に提出されたが廃案となった経緯がある。

(1)「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案の内容

 1985年6月6日に伊藤宗一郎衆議院議員ら10人が、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」を衆議院に議員立法として法案を提出した。

 法案は、全14条および附則により構成される。目的(第1条)と国家機密の定義(第2条)は次の通りである。

①第1条 この法律は、外国のために国家秘密を探知し、又は収集し、これを外国に通報する等のスパイ行為等を防止することにより、我が国の安全に資することを目的とする。

②第2条 この法律において「国家秘密」とは、防衛および外交に関する別表に掲げる事項並びにこれらの事項に係る文書、図画又は物件で、我が国の防衛上秘匿することを要し、かつ、公になっていないものをいう。

 罰則に関しては、最高刑は死刑とされた。

 しかし、本法案が一般国民の権利制限に直結する法律であることや報道の自由が侵害されることに対する懸念から、大多数のマスメディアや野党、弁護士会等が反対に回ったため、政府は同法案を内閣法案として提出することを断念し、議員立法として提出したが、第102通常国会において同法案は継続審議となった。

 これに対し、当時の国政野党(日本社会党・公明党・民社党・日本共産党・社会民主連合他)は断固反対を主張した。

 また、自民党は当時所属議員が衆議院に250人、参議院に137人の合計387人が所属していたが、その内12人が「我が国が自由と民主主義にもとづく国家体制を前提とする限り、国政に関する情報は主権者たる国民に対し基本的に開かれていなければならない」と法案制定へ反対すると述べた。

 法案は、自民党、新自由クラブなどの賛成多数で継続審議となり、1985年10月14日に招集された第103回臨時国会でも審議されたが、同年12月20日に衆議院内閣委員会理事会は法案を審議未了のまま廃案とすることを決定した。

(2)反対意見の内容

 当時どの様な反対意見があったか、国会での発言を紹介する。

 第102回国会 衆議院 議院運営委員会(1985年6月月25日)における各委員の反対意見は次のようなものであった(出典:国会会議録検索システム)。

①広瀬秀吉委員(日本社会党)「日本国憲法の平和主義、民主主義そして基本的人権尊重の3つの理念のいずれにも反する」、「国権の最高機関である国会の審議にも多かれ少なかれ必ず影響を及ぼして、守秘義務を盾にとって国会、国権の最高機関にすら、国家機密あるいは防衛機密、外交機密というようなことを理由にして国民の代表である国会の審議権すら無視される大きな危険をはらんでいる。まさに議会制民主政治瓦解の方向にすらつながりかねない」

②平石磨作太郎委員(公明党)「我が国の平和憲法の立場から考えましたときに、この法案はまさに憲法上疑義のある法案である」、「国家秘密の件でありますが、秘密とは一体何かという概念が明らかにされておりません」

③西田八郎委員(民主党) 「少なくとも、こうした国家秘密を守るためには国民的コンセンサスを得る必要がある」「国家秘密の定義そのものが極めて抽象的であり、あいまいであります」「国のいろいろな問題を知る権利を持った国民の権利を抑圧することになる」

④東中光雄委員(日本共産党)「この法律がスパイ防止を口実にして、広範な国民の知る権利、言論、出版の自由を抑圧する」「戦前の法律で言えば、昭和十二年の八月、日中戦争が起こった翌月につくられた軍機保護法、そして太平洋戦争が始まる半年前にできた昭和十六年の三月の国防保安法、ここで外交事項を入れたわけです。その二つを合わせたものを今出してきた。しかも、それに対する漏洩は、外国への通報ということになれば死刑と無期懲役だけしかない。こういう法体系というのはまさにファッショ的な戦時立法なんです」