定信に代わって老中首座となった「太鼓持ち」

 今回の放送では、松平定信が11代将軍の徳川家斉や父の一橋治済らの陰謀で失脚させられた。財政再建のために身を粉にした定信が屈辱に震える姿は、やや気の毒だった。だが、倹約を強いられてきた庶民が、定信の退場を歓迎する気持ちもよく分かる。

 定信の失脚後、深川・本所・音羽・根津・三田などの江戸周辺の岡場所は復活するが、天保12(1841)年からの「天保の改革」によって、本格的に廃絶へと向かうことになる。

 就任6年目にして老中辞職へと追い込まれることとなった定信。その失脚劇の中心となったのは、定信の右腕として「寛政の改革」に加わった老中格の本多忠籌(ほんだ ただかず)だったと言われている。

 定信がまだ白河藩主だった頃から運命を共にした2人だが、蝦夷地の開発を巡って意見が対立するなど、互いに思うところがあったのだろう。忠籌が一橋治済の賛同を得たうえで、「独裁的な傾向が強い定信を、将軍補佐と老中の双方から解任すべし」と老中の評議にかけて、定信を表舞台から立ち去らせることになった。

霊巌寺(東京都江東区)にある松平定信の墓(写真:a_text/イメージマート)

 定信の後に、数人が老中首座を務めることになるが、将軍の家斉のお気に入りとして重宝されたのが沼津藩主の水野忠成で、いわゆる「太鼓持ち」である。

 ぜいたく好きの家斉を戒めるどころか、自身も賄賂を受け取った忠成は、定信とは全く違うタイプだった。忠成が家斉に好きにさせた結果、幕府の財政はまた悪化の一途をたどり、庶民の生活を苦しめることになる。

「松平定信さえいなくなれば、生活はよくなるはず……」と考えていた人々の期待は、裏切られることになりそうだ。

 次回は「空飛ぶ源内」。耕書堂で働きたいという男・貞一(ていいち)が現れる。後に『東海道中膝栗毛』を書く十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)の登場だ。

【参考文献】
『江戸の色町 遊女と吉原の歴史 江戸文化から見た吉原と遊女の生活』(安藤優一郎著、カンゼン)
「江戸における岡場所の変遷」(平田秀勝著、『常民文化』第20号、成城大学、1997年3月)
『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(松木寛著、講談社学術文庫)
『蔦屋重三郎』(鈴木俊幸著、平凡社新書)
『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(鈴木俊幸監修、平凡社)
『宇下人言・修行録』(松平定信著、松平定光著、岩波文庫)
『松平定信 政治改革に挑んだ老中』(藤田覚著、中公新書)
『松平定信』(高澤憲治著、吉川弘文館)