非公認の遊郭「岡場所」の栄枯盛衰
吉原の苦境については、安達祐実が演じる吉原の女郎屋「大黒屋」の女将・りつもこんなことを言っている。
「何もかも倹約倹約。遊びもなく事を済ますのが一番。ホントにただの岡場所になっちまったってことさ」
幕府から公認されている吉原以外にも、非公認の遊郭があり、それを「岡場所」と呼ぶ。元和3(1617)年に日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)への遊郭の建設が江戸幕府から許可されると、翌年に吉原が開業。以降、吉原の遊女が公娼とされ、それ以外の私娼を置くことは禁じられた。
だが、その後も江戸市中には私娼は依然として存在し、ひそかに風呂屋に遊女を送り込む湯女も人気だったようだ。しばらくは黙認されていたが、明暦2(1656)年10月に吉原が浅草寺北側の日本堤(現在の台東区千束)に移転が決まり、翌年の明暦の大火後に新吉原に移ることになると、事態は変わる。
移転して吉原が江戸から遠くなってしまえば、客はますます私娼の方へと流れてしまう。そんな危惧から、吉原を保護するために、江戸市中に200軒あまりもあった風呂屋は取り壊すことが決定する。
風呂屋が取り払われたことで、行き場がなくなった湯女たちを抱えたのが、茶店だった。江戸近郊に茶屋町ができ、幾度となく幕府から取り締まりを受けながらも、「岡場所」として発展していくことになる。
やがて、敷居が高い吉原よりも気軽に通いやすいと、多くの庶民が岡場所に殺到した。田沼意次が老中だった頃には、緩和政策によって岡場所は80を超えるなど最盛期を迎えることになる。
そんな時代背景を受けて、『べらぼう』の第1回では、蔦重が岡場所を取り締まるように老中の田沼意次に直訴。吉原を守るための行動だったが「宿場町が栄えるのは、女と博打があること、宿場町が潰れると国益に関わる」として、取り合ってもらえなかった。
それどころか意次に「人を呼ぶ工夫が足りぬのではないか? お前は何かしているのか? 客を呼ぶ工夫を」と叱咤されてしまい、蔦重は吉原に客を呼ぶべく、出版業へと乗り出すことになる。
月日を経て、松平定信がかつての蔦重の要望通りに、岡場所の取り締まりを強化するのだから、何とも皮肉だ。定信は50カ所以上の岡場所を取り払っている。その結果、岡場所から吉原に遊女たちが移ってくることになり、吉原はかつての高級感を損なうことになった。