ホーキング博士が果たした役割
──ただ、その考え方も当初は批判にさらされたそうですね。
野村:熱力学によれば、エントロピーを持つ物質は必ず放射熱を発します。ただ、ブラックホールは「事象の地平面」という境界を持つため、いかなる放射も外に出せないと考えられていました。ベッケンシュタインの理論は熱力学第二法則を救いましたが、「エントロピーを持つ物質は熱を放つ」という別の性質に矛盾しているように見えたのです。
このことを詳細に調べ、さらに理論を進化させたのが、英国の物理学者スティーヴン・ホーキングでした。ホーキングは一般相対性理論に量子力学の効果を取り入れて計算し、ブラックホールでも微弱な放射が起こることを示しました。これが「ホーキング放射」と呼ばれる現象です。
では、なぜ放射が起こるのか。
量子力学の世界では、真空であってもエネルギーの揺らぎにより、粒子のペアが絶えず生まれては消えています。ブラックホールの近傍では、このペアは正と負のエネルギーを持ち、そのうち負の粒子がブラックホール内部へ落ち、正の粒子が外に飛び出す。この正のエネルギーを持つ粒子が、ブラックホールからの放射に相当します。
この放射の温度は、ブラックホールのエントロピーが表面積に比例するということに対応することがわかります。つまり、熱力学と全く矛盾しない。これによって、ブラックホールは熱力学を破綻させるようなものではなく、きちんと熱力学の法則にしたがう天体であることが確定しました。1974年のことでした。
──ただ、ホーキングの理論も完璧ではなかった、という話でしたね。
野村:ホーキング放射の結果、ブラックホールは時間とともにエネルギーを失い、小さくなっていきます。最終的には蒸発して消えると考えられますが、問題はその蒸発後の状態にあります。
ホーキングの計算結果で不思議だったのは、蒸発する以前のブラックホールの質量が同じであれば、いかなるブラックホールであっても蒸発した後の状態が「全く同じ」になってしまうという点です。これは、空気のように一見同じだけれども、実は分子の位置が違うというような話ではなく、放射された粒子の位置や状態が寸分違わず同じということです。
ホーキングがこれを計算するときに使ったのは、量子力学の効果を一般相対性理論に入れたものです。量子効果と一般相対性理論を完全に融合させた理論である量子重力理論は、当時も今も見つかっていません。
量子重力理論がないがゆえに、ホーキングは重力の理論である一般相対性理論に量子力学の効果をパッチワークのようなつぎはぎで入れて計算せざるを得ませんでした。ただ、当時はその近似的な計算方法でもブラックホールの謎を解くには十分であると考えられました。
ところが、そのような計算方法では、同じ質量のブラックホールから出発すると、放射が全く同じになってしまうという問題が生じたのです。
──「同じ放射の状態」であることは、どのような問題があるのでしょうか。