父親には、ものすごく複雑な思いを抱えているという(写真:AP/アフロ)
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 心理カウンセラーや一般社団法人共にいきるの理事として活動している松本麗華氏は、かつて「三女・アーチャリー」として知られ、2018年7月に死刑が執行された麻原彰晃こと松本智津夫の娘である。

 8月に、自身と家族との記憶をテーマにしたドキュメンタリー映画『それでも私は Though I'm His Daughter』(2025年 長塚洋監督作品)の関係で、韓国の映画祭に出席する予定だったが、韓国政府から入国を拒否された。もっとも、このような扱いを受けるのは今回が初めてのことではない。彼女はこれまでどれほど世間から排除されてきたのか。そして、彼女のいう「構造的虐待」とは何か。『加害者家族として生きて』(創出版)を上梓した松本麗華氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト)

──就職、アルバイト、習い事、進学など、あらゆる場面で受け入れを断られてきたことについて書かれています。

松本麗華氏(以下、松本):最初に断られたのは、両親が逮捕された後の、私が12歳のときです。普通の子どものように小学校に通って友達を作りたいと思い、当時住んでいた静岡県富士宮市の教育委員会にお願いに行ってもらったところ、「どうか来ないでほしい」と言われたのが最初ですね。公立小学校の実質就学拒否でした。
 
 13歳のときに福島県のいわき市に引っ越して転入手続きをしました。その後、教育委員会の方が訪ねてきて、学校に通うには調整が必要だと言われました。

 調整している間に、私は中学2年生の年齢になってしまいましたが、小学校を卒業していないことと地域の反対運動を受けている問題点などがあるとのことで、教育委員会から次のような提案を受けました。通常の生徒とは別にプレハブ小屋を作り、そこに通ってもらい地域の方々に公開する。そこで小学校5年生からやり直すなら受け入れる──という提案です。

 私は当時、マスコミに追いかけられていましたし、そのような環境で3学年も下の学年に入って友達もできるはずがないと思いました。それで、中学に通うことを諦めました。

 それでも、どうしても友だちが欲しい、学校に行きたいと思って、一桁のかけ算から学び始め、高校受験を目指しました。その後、中学校卒業程度認定試験を経て、公立高校を受験しましたが不合格でした。

 公立高校受験の翌年にあたる2000年2月に、茨城県旭村にあった自分の家に勉強道具を取りに行ったところ、長姉の家に侵入したとして逮捕され、その間にいくつかの学校の出願期間や受験日が過ぎてしまいました。この時は社会の中で生活することが大切だということで、保護観察処分で終わりました。

 その後、4月になってしまっていましたが、保護者をしてくださっていた方と松井武弁護士がさまざまな学校に相談してくださいました。それでも、どこにも受け入れてもらえず絶望しましたが、最終的に日出高校の通信制課程に入学することができました。

──行く先々で拒絶されるという経験を、当時どう受け止めていましたか?

松本:絶望の先にいるというか、現実感のない世界の中で生きている感覚でした。あまりにも辛くショッキングなことが続いたので、専門用語でいうと慢性的な乖離状態だったのだと思います。