運命の出会い
昭和21年(1946)2月18日、暢は高知新聞に「見習い記者」として入社した(高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語 最愛の妻 暢さんとの歩み』)。
暢は当初、社会部に配属されたが(梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)、その後、『月刊高知』の編集部に異動となる。
同年5月、高知新聞社の採用試験が行なわれ、暢も受付などを手伝った。
この時、27歳の柳瀬嵩も採用試験を受け、5人の合格者のうちの1人に選ばれている。
70人が試験を受けていたので、柳瀬嵩はかなりの狭き門をくぐり抜けたことになる。
柳瀬嵩は5月24日に入社し(高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語 最愛の妻 暢さんとの歩み』)、はじめは社会部に配属された。
ところが、1カ月も経たないうちに、暢のいる『月刊高知』の編集部に異動となる。
編集部は、リーダーの青山茂、柳瀬嵩より7カ月先に入社した品原淳次郎(しなはらじゅんじろう)と、暢と柳瀬嵩の総勢4名だった。
編集部に配属となった柳瀬嵩は、暢に一目惚れした。
後年、柳瀬嵩は「自分のデスクの前に座った女性が綺麗でよかった」と惚気たという(越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ~やなせ夫妻のとっておき話~』)。