最初の結婚と夫の死

 暢は、大阪府立阿部野高等女学校(現在の大阪府立阿倍野高等学校)を卒業した後、東京で仕事に就き(梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)、昭和14年(1939)に結婚した。

 結婚相手は小松總一郞といい、日本郵船に勤務していた。高知県出身で、暢より6歳年上である。

 暢と總一郞の結婚生活は、7年で終わりを告げることとなる。

 戦時中、一等機関士として海軍に召集された總一郞は病に罹り、3年ほど高知市で療養したが、終戦後の昭和21年(1946)1月19日、33歳で帰らぬ人となったからだ。

 残された暢は、夫を亡くした悲しみに沈むことなく、新たな道を歩みはじめる。

 暢は總一郞の死から8日後に掲載された、高知新聞の「婦人記者募集」の記事を見ると、これに応募する。

 そして、31人の応募者の中から、合格者2人のうちの1人に選ばれたのだ(もう1人の合格者は深田貞子)。

 暢はこの高知新聞社で、やなせたかし(柳瀬嵩/以下、柳瀬嵩で表記)と出会うことになる。