写楽の登場

 重過料に処せられた寛政3年(1791)の3月には、蔦重は書物問屋仲間に加盟し、専門書・学術書の出版も手がけていくようになる。

 寛政改革の文武の奨励により、学術書等の需要は高まっていた。

 また、寛政4~5年(1792~1793)にかけて、蔦重は喜多川歌麿の『婦人相学十躰』、『婦女人相十品』、『歌撰戀之部』などの美人大首絵を刊行し、大好評を博している。特に、『婦女人相十品』の「ホッピンの娘」は有名である。

 さらに歌麿は、のちに「寛政三美人」と称される、実在する江戸で評判の美人を名入りで描き、大衆から圧倒的支持を受け、一躍、浮世絵界のスターの座に上り詰めた。

東洲斎写楽 重要文化財《市川鰕蔵の竹村定之進》 江戸時代・寛政6年(1794) 東京国立博物館 出典:ColBase

 寛政6年(1794)には、蔦重は謎の浮世絵師・東洲斎写楽をデビューさせている。

 写楽の正体には諸説あるが、近年では阿波国徳島藩主・蜂須賀氏お抱えの能役者である斎藤十郎兵衛とする説が有力である。

 写楽は僅か10カ月の間に、140点を超える役者絵や相撲絵など残し、浮世絵界から姿を消した。