1848年、新見正路は57歳でこの世を去り、正興が家督を継ぎます。そして、5年後の1853年、ペリー率いる黒船が来航し、1860年、外国奉行だった正興は、日本人として初めてアメリカ大統領に謁見する大役を果たすのです。
私の傍系先祖である佐野鼎は、このとき、新見正興を正使とする万延元年遣米使節団に、益頭駿次郎という幕臣の従者として参加していた、というわけなのです。
当時の仕事内容や出来事を詳細に綴った『新見正路日記』
正裕さんから、ご先祖である正路についてのお話を伺った私は、早速、2010年に出版された『大坂西町奉行新見正路日記』(薮田貫編著/清文堂出版)という分厚い本を入手しました。
筆文字が翻刻されているとはいえ、当時の文字で書かれているので、すべてを理解することはできないのですが、火事や殺人、捨て子や変死体処理、各種争いの裁判にいたるまで、さまざまな出来事への対応にあたっていることが見て取れます。当時の「お奉行様」の仕事は、本当に多岐にわたっていたのですね。
そんな多忙な日々の中で、正路はあの大規模な浚渫工事の指揮を取ったというのですから驚きです。
史料によれば、この工事には延べ10万人以上の労働力がつぎ込まれたとのこと。どうせなら楽しく作業しようということで、現場はお祭り騒ぎだったということです。
また、筆まめな正路は、緻密な日記を欠かさずつけており、その筆致にはただただ感服するばかりです。この『新見正路日記』は、当時の世情や旗本の生活を知るうえで、一級の史料と言われており、これからさらに研究が進んでいくことでしょう。
正路の写真は残念ながら残っておらず、子孫である正裕さんのご自宅には、以下の肖像画が掛け軸として保管されているそうです。

ちなみに、「西町奉行所跡」は大阪市顕彰史跡に指定されています(中央区本町橋2 マイドームおおさか前)。

というわけで、これから大阪・関西万博へ行かれる方は、大阪メトロ「夢洲」駅から2駅先の「大阪港」駅を出てすぐの天保山に、こうした歴史があったこと、そして新見正路という名奉行がいたことを思い出してみてくださいね。