万延元年遣米使節団トップの玄孫との邂逅

 日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府が派遣した「万延元年遣米使節団」。その随員のひとりとして佐野鼎(1829~1877)が渡米し、詳細な『訪米日記』を記していたことについては、本連載で何度も取り上げてきました。

 このとき、海を渡った日本人は総勢77名だったのですが、そのトップ「正使」として大役を任されたのは、当時、外国奉行であった新見正興(しんみまさおき/1822~1869)という幕臣でした。

 先日私は、新見正興の玄孫である新見正裕さんとともに、東京都内でご先祖ゆかりの史跡を散策しました。

 新見家は徳川家康の時代から、将軍の側で幕府の要職を務めてきた名家の旗本です。佐野鼎は蘭学や西洋砲術に秀でた秀才ではありましたが、身分は決して高くなかったため、おそらく当時は将軍にお目見えできる立場の新見さまとは、直接お話することはできなかったはずです。

 とはいえ、約9カ月間におよぶ地球一周の旅を、同じ米軍艦の中で過ごした仲間です。165年のときを経て、その子孫同志がこうして親しく交流していることに、ご先祖たちもきっと目を細めていることでしょう。

ワシントン海軍工廠を視察する遣米使節:前列左から、外国奉行支配両番格調役・塚原但馬守、外国奉行頭支配組頭・成瀬善四郎、副使・村垣淡路守、正使・新見豊前守、監察・小栗豊後守、勘定方組頭・森田岡太郎(Mathew Brady, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 1860年、遣米使節のトップとして、幕末にワシントンのホワイトハウスを訪れ、アメリカのブキャナン大統領と堂々と対面した新見正興(当時38)。このときの副使は村垣範正(むらがきのりまさ)、目付は2027年NHK大河の主人公に決まった小栗忠順(おぐりただまさ)でした。

 幕府はこの8年後に消滅しましたが、幕府から正式に命を受けて初めて異国の地を踏み、進んだ西洋文化に触れた彼らはその後、さまざまな分野で日本の近代化に大きな影響を与えたのでした。

万延元年遣米使節。左から副使・村垣範正、正使・新見正興、監察・小栗忠順(1860年)(Alexander Gardner, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)