「サントリー ドリームマッチ2018」に登板し、「ピッカリ投法」を披露した佐野慈紀投手(2018年7月30日、写真:産経新聞社)

 元近鉄バファローズの投手として活躍し、プロ野球史上初めて、中継ぎ投手として年俸1億円を獲得した佐野慈紀(さの・しげき)。帽子を飛ばして頭皮を見せる「ピッカリ投法」で人気を博した。だが、39歳で糖尿病を患い、家族との別離や元チームメイトで親友だった野茂英雄との借金トラブルに見舞われ……。そして2024年、感染症の転移により右腕を切断することに。生きる希望を見失いながらも懸命に戦う男が、壮絶な手術体験を振り返る。

(*)本稿は『右腕を失った野球人』(佐野慈紀著/KADOKAWA:2025年5月1日発売)の一部を抜粋・再編集したものです。

>>【写真】手術後の佐野慈紀氏

運命の日を迎えた5月1日の朝

 いつものようにあまり眠れないまま、5月1日の朝がやって来た。

 いよいよ自分の人生を支え続けてくれた右腕に別れを告げる当日を迎えた。

 右腕のヒジ上部までを切断することが決まったのは、奇しくも56歳の誕生日前日のことだった。

 3日前には、糖尿病の影響による感染症拡大を防ぐため、過去に味わったことのない身の毛もよだつような痛みに耐えながら、2023年12月に切断した右手人差し指と中指の患部の洗浄をしてもらっていた。だが感染症は、右手甲および手首をもむしばみ、遂に病院の先生から右腕の切除を相談されたのだ。

 今振り返っても心の準備をする暇などなく、まさに怒濤の波にのみ込まれるように時間だけが経過していった。改めて糖尿病の恐ろしさを痛感するばかりだ。

 それでも、外見上は普段通りの自分でいられたし、ベッドの上でゆっくりと手術の時間まで待てていたように記憶している。この期に及んでも、自分の真骨頂ともいえる究極の「強がり」を発揮していたのだと思う。

 まさに無死満塁の場面でマウンドに上がるときの心境そのもので、「あとはなるようにしかならない」と開き直っていた。ちなみにこの強がりこそが、いい意味でも悪い意味でも常に自分の人生を左右し続けてきた。