中世武士の起こり
ところが中世になると、武士が台頭してくる。
彼らは公的な兵ではなく、私兵である。地方ごとで寄り集まる「地元ファースト」の民間人で、いわば武装勢力である。
ここで雑多な〈領主別編成〉をイメージしてしまいそうになる。だが、よく考えなおしてみると、彼ら武士は、無数の個人戦だけで軍隊を構成するわけではない。
もちろん必要な時には雑多な構成になることもあった。だが、盾は盾だけで、弓も弓だけで集合する布陣が、10世紀の平将門時代ですでに常用されていた。
例えば『将門記』を見ると、将門と戦った平良兼が部隊のうち楯だけを「垣のように盾を並べた」布陣しており、将門はこれを騎兵で突破して、良兼隊を蹂躙している。同書では、騎兵と歩兵(ふひょう)がそれぞれ別個の集団を構築して戦う描写が繰り返されている。
どうやら9世紀の国軍と、10世紀の私軍は乖離しておらず、どちらも〈兵種別編成〉を常用していたようなのである。
その割合は不定としても、武士が戦争をする生き物であるならば、最小単位の〈領主別編成〉タイプの兵員たちも自分だけでミニマムな軍隊を構成するはずだ。
兵数がたった3人しかいなくても、盾を使う者が最低1人はいるに違いない。鎌倉時代ならば、騎兵が必ずいる。これを補佐する歩兵が欠かせない。定数ではないが、武士は常に〈兵種別編成〉を構成する。映像作品のスタッフもカメラマン、出演者、照明など、分業が当たり前なように、武士の軍隊もそれをやっていた。
そして大将の指揮下に入って集団化した時、大将が命令するなら、武士たちは即座に武器を持ち替えて、弓は弓、長刀は長刀、騎馬武者は騎馬武者で集まり直しただろう。
なぜなら、武士は万能の戦士である。弓、刀、馬の達人でなくてはならない。勝利するためならば、武器の持ち替えぐらい受け入れて当たり前だ。むしろ当たり前でなければ武士ではない。