個人戦から集団戦へ

 戦国大名のもとには、足軽や雑兵といった「武士」ではない歩兵が集まるようになり、集団戦向きの編成と運用が本格化していった。かつて個人戦でのみ使われていた鉄砲も大量に揃えられるようになってきた。すると、戦国大名は計画的な〈兵種別編成〉の軍隊を構成できるようになった(図1:〈領主別編成〉と〈兵種別編成〉のイメージ)。

図1:〈領主別編成〉と〈兵種別編成〉のイメージ
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 私はこうした議論を受け入れて、拙著『戦国の陣形』に、旗隊、鉄砲隊、弓隊、長柄隊、騎馬隊という五つの兵種が創出される様子を描き出し、日本中に〈兵種別編成〉が定着したという解釈を披露した。

 この説明は、いくらか普及したようで、歴史博物館で当たり前に取り入れられているのを見たこともある。

 ただ、再検証をしているうちに、私の中で別の解釈が現れてきた。結論から先にいうと、基本的な解釈(兵種別の部隊の編成が本格化したという理解)は今も変わらないが、〈領主別編成〉は実際には存在しなかったのではないかという解釈である。

律令制の兵種別編成

 時代をかなり遡らせることになるが、9世紀前半成立の『令義解』軍防令「軍団条」の一文をみてみよう。

 凡軍団、毎一隊、定強壮者二人、分充弩手、均分入番

(【意訳】すべての軍団は、1つの隊に技術者を2人ずつ置き、弩の使い手を均等に編成して、番に入れておくこと)

 弩の扱いに、2人の力ある兵士に技術者を添えて、複数名で使うよう定めたのである。連射を目的とした集団運用である。「鉄砲三段撃ち」のような扱いはこの時代からすでに常用されていた。

 同じく『令義解』軍防令「陣列之法」には、次の一文がある。

 陣列之法、一隊十楯。五楯列前、五楯列後。楯別配兵五人。即以前列廿五人為先鋒。後列廿五人為次鋒之類

(【意訳】陣列の法について。1隊につき楯を10配置する。楯5つは前列に、楯5つは後列に置き、楯の後ろに兵を5人ずつ配する。すなわち前列の25人は先鋒、後列の25人は次鋒とする編成にする)

 古代史の専門家たちの研究をもとに図示化すると図2の形状になる(図2:「陣列之法」における「一隊」の基本隊形)。

図2:「陣列之法」における「一隊」の基本隊形
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 これは〈兵種別編成〉である。同じ9世紀の史料『貞観儀式』(859~877)に、当時の軍令が説明されている。時報・起床・着装(武装せよ)・集合(集まれ)・出陣・進撃・布陣(止まれ)・戦闘態勢・戦闘開始・戦闘停止・戦場退去・戦闘集結・帰陣・解軍、これらの号令が具体的に記されているのだ。

 ここに古代の日本が、集団を集団として編成して運用する仕組みを本格的に作ろうとしていたことを確かめられる。〈兵種別編成〉は古代から採用されていた。