南北朝時代の〈兵種別編成〉
これをよく示すのが、南北朝時代の合戦記録である。
元弘3年(1333年)閏2月11日、播磨国の赤松円心は敵軍と対峙したとき、野戦に備えて軍隊の編成を組み替えさせた(『太平記』)。
態敵を難所に帯き寄ん為に、足軽の射手一二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて
(【意訳】山の上に陣取った赤松円心は、わざと敵を戦いにくいところへ誘導するため、足軽の弓兵1〜200人を山の麓へ降ろし、遠いところから矢を控えめに射かけさせ)
ここでは単に弓兵を臨時に編成しただけだが、軍隊の再編成はその場の考えで柔軟に変化できたのである。
幕府軍と楠木正成との合戦である正平(しょうへい)3年・貞和(じょうわ)4年(1348)1月4日の四條畷合戦では、佐々木道誉の部隊の運用が完全に〈兵種別編成〉となっている(『太平記』)。
佐々木佐渡判官入道は、二千余騎にて、伊駒の南の山に打上り、面に畳楯五百帳突並べ、足軽の射手八百人馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹射させて猶予する処あらば、真倒に懸落さんと、後ろに馬勢控へたり
(【意訳】佐々木道誉は2000騎以上の侍たちと一緒に、生駒の南の山へと登り、前面に盾をびっしりと500個ならべ、足軽の弓兵800人を下馬させた。ここまで乗馬して登ろうとする敵がいたら馬の腹を射たせ、そこに隙があるなら蹴散らしてやろうと後ろに騎馬武者たちを控えさせた)
ここにあるように、山の上へと2000騎以上の侍を連れて布陣した佐々木道誉は、これを盾隊500人、弓隊800人、そして騎馬隊に再編させた。ほかにも下馬した歩兵はあっただろう。
その場での臨時編成が可能ということは、侍たちは日頃から柔軟に武装を使い分ける用意があったことになる。
ということは、〈兵種別編成〉というのも固定的ではなく、形を自由に変化させることができたのだ。
ここに、既存の〈領主別編成〉はいくらか修正が必要で、〈兵種別編成〉と単純に区別できないことが見えてきたと思う。
しかし、戦国時代に、こうした編成が臨機応変にではなく、完全分担化して定着することになる。戦争が非日常のものではなく、日常のものとなり、貴重な万能戦士たる武士たちが死んだあとと戦争が繰り返されるので、これを穴埋めするため、素性が不安定な兵員を補充する必要が生じたからである。
ここにいわゆる足軽・雑兵が普及することになった。彼らは、「武器を弓に持ち直せ」「みんな馬に乗れ」「100人で集まれ」と言われても、用意すらしていない者もいて、まごまごすることになるだろう。
加えて鉄砲の伝来もある。鉄砲は弓より使える武器として日本中に広まった。だが、こちらは足軽どころか武士ですら簡単に扱えず、手に取ったことのない者も少なくなかっただろう。「とりあえず鉄砲だけで50人ここに並べ」と言われてもすぐに対応できたとは思われない。
ここで軍事改革というほどのこともなく、分業化が進んでいく。大将が家臣たちに初めから「あなたの鉄砲は何人、騎馬は何人」と武装と定数を設定しておいて、その通りの構成をするように準備させるのだ。
こうやって戦国時代に、編成の思想が大きく変わっていく。こうした変化は、天才がいたとか合理的な編成を研究したとかではなく、自然な時代の流れへの対処として生じたのである。
とはいえ、戦国時代は英雄の時代である。上杉謙信と武田信玄が、さらなる変化を促進することになる。
【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。