半世紀を貫いた「ライブの生命」
道義さんが子供の頃、ピアノとバレエを習っていたとか、成城学園の先輩でもある小沢征爾さんと同様、いったん成城で高校まで進学した後、仙川の桐朋学園に移ったとか、実は父親はどーだこーだ、といったドキュメントはウィキペディアにでも任せておきましょう
(ウィキペディアの情報ソースにも、かつて日経ビジネスオンラインに私が書いたコラムが引用されていて、驚きました)
あまり世間に知られていないこととしては、近眼であること、子供の頃から大変に読書が好きで、派手に見える外見と違って、非常に一生懸命勉強すること、などを挙げておきましょう。
また道義さんは徹頭徹尾「現場」「劇場」「ホール」の人です。
彼のアシスタントをさせてもらっていた頃、本番前の通し稽古(ゲネプロ)で、ホール内のいろいろな場所で響きのチェックを手伝いました。
彼自身も、あれこれ振る必要のない部分では、指揮台を降りて1階客席のあちこちで響きを確かめ、2階奥などは私が足を運びました。
ホール最後列、最後の一人のお客さんまで、きちんと音楽を届けるのが楽隊業、といった信念を、問わずがたりに教えてもらいました。
今思い起こすと、これらはのちに私のラボのバイロイト祝祭劇場での仕事や、シュトックハウゼンとのプロジェクトにも点と線で繋がっているのが分かります。
派手なイメージとは別の「勉強魔」
私が道義さんと初めて会ったのは、忘れもしない、当時は大井町にあった国鉄(JR)工場2階の新日本フィルハーモニー練習場(オーケストラは1990年代まで、そんなところでかろうじて命脈を保っていました)でした。
テレビ朝日が「クボタ鉄工創立100周年事業」として行った「シルクロード国際管弦楽作曲コンクール」本選審査のリハーサル初日、指揮者室を訪ねた時でした。
開口一番「君が伊東君? いろいろ訊きたいことがあるんだ、座ってよ」と道義さんは、付箋が山のように付けられた、私の若書きの管弦楽作品(「天路歴程」1990)のスコアを開いて、矢継ぎ早に質問。
また「この曲は練習時間が必要だから」とスケジュールを調整していただきました。
(「コンクールだから練習時間は公平な方がいい」という役人的な意見もありましたが「これ、難しいから」と時間を割いてくれました)
今だから書きますが、「まだ全然分からないことだらけだから、明日ウチに来て」と言われて、翌日、当時は代々木上原駅前にあった道義邸を訪ね、小一時間くらいだったと思います、作品の詳細をお伝えし、すべてきちんと理解してもらえました。
この作品、初めは夏場にテレ朝の深夜広告で楽曲募集を目にし、私には父の同級生にあたる團伊玖磨氏が委員長、師の松村禎三や黛敏郎、山田一雄といった往年の大御所が並ぶ「シルクロード」だというので、誰がそんなもん出すか、と思っていたのです。
ところが、サマースクールで指導を受けたレナード・バーンスタインが急逝、考えていた留学を取りやめ、また、書くことはできるけれど自分で封印していた古今東西、様々な音楽書法をごちゃ混ぜにして、ドリフターズのギャグみたいなバカな音楽を書いてやれ、と思ったんですね。
シルクロードというのだから、最初は「正倉院」とか言って、雅楽のギミックの途中に無関係なものが挟まり、次は「長江」とタイトルして、直前に流行っていた「ラストエンペラー」(坂本龍一作ということになっていますが、これも今だから書きますがスタッフG氏の仕事と聞いています)、あれよりはもうちょっと中華風にしたラーメン音楽が現代ギリシャの作曲家イアニス・クセナキスのような書法に覆いつくされてしまったり。
続く東南アジアはベトナム戦争後に生まれる混血児のようなジャズとガムランのハイブリッド。
中近東はイランやイラクの音楽をアイヴズ風に断続、東欧はサティ風、バルトーク風、ヤナーチェク風と、ずっと「性格変奏」をつなげていくのですが、全部完全に同一のテーマで変奏するんですね。
こっちはそれが領分ですから、「すべて同一のモチーフから性格変奏!」とぶち上げると、ものすごい書法の能力があるように見えます。
でも、タネがあるんですね。
民俗音楽学者の小泉文夫さんが残された膨大なテープがあって、作曲の武満徹氏や堤清二さんを支えた編集者で小泉文夫賞選考委員でもある秋山晃男さんから、どさっとそのカセットテープを借りてきた。
それを片っ端から聴いていって、面白いものをどんどん採譜していった。それらを並べると、少し変形するだけで、同じモチーフから変奏したような断片がたくさんできるわけ。
後は、フーガなんかは自分で書けばよく、全体を性格変奏曲にまとめる程度は、普通に勉強した人なら誰でもできることに過ぎません。
そして、その全部にいちいち「ドリフ」みたいなギャグを仕掛けた。
あれは、書いていて、25歳なりに自分でも楽しい仕事でした。「ポストモダン」といって、当時は「引用のタペストリー」が流行っていた。
私は、磯崎新さんの「筑波センタービル」の構造を下敷きに、こういう音楽の悪ふざけを、合唱付き3巻編成、32分の管弦楽曲にまとめて音楽の「あっかんべー」をしてみたわけです。
最後は「羅馬(ローマ)」と書くんですが、これは明らかにウソで、不断に転調を繰り返すドイツ・プロテスタント風ホ短調のフーガをクソマジメに書くふりをして、そこにラーメンマンからジャズガムラン、ジュークボックスからヤナーチェクまでごった煮にぶち込んだ。
フーガの末尾はストレット(緊迫部)などと呼ばれる、複数の主題動機が絡まり合う大詰めから、元の「ホ短調」の原型に「解決」するんですが、そうではなく、同じ「ホ音」Eを主音に持つ「平調越天楽」のパロディ、雅楽風変奏、全曲の冒頭に「回帰」=解決して接続というおバカをやってみたんですね。
バカバカしいですが、それなりに作曲上の工夫は必要なお遊びです。
こういうのは私は子供の頃から自由自在、耳に聴こえるものなら何でも書き分けますが、そんなの独創性から見れば価値ない、単なる曲芸で芸術としては意味はないと作品では封印してきました。そのあらゆる書法の全面解禁で、パーッとやらかしてみた。
黛さんは冒頭からひっくり返って笑っていたし、フーガの終わりまで30数分間まじめな顔をしていた團さんも、雅楽の大太鼓と鉦鼓が「ド・チン」となった瞬間、スコアに突っ伏してヒクヒク痙攣し始め、曲が終わるまで二度と顔を上げることがありませんでした。
「やったぁ!」と思いましたね。
こういうバカな悪ふざけは、学園祭などは別として、学校に所属していると、中々やろうと思ってもできないものです。
でも三善晃さんとか、松村禎三、武満徹の映画音楽、私もそうですが、学校と無関係に内弟子で学び、そこから仕事現場に直行した人間は、この手のことで思い切りのよい行動が取れます。
師の松村には怒られると思いましたが、呆れて笑っていました。
山田一雄先生は作曲家であり指揮者でもあったので、よく分かっていただけ、全日空ホテルで開かれたレセプションの席で「これはこれは(25歳の私を捕まえて)伊東センセイ!、いやー面白かった。あんなにきちんと全部書き分けていたのは、あなただけだった!」と握手してくださり、座っていた椅子を譲ってくださったりと、不思議な楽しい思い出になりました。
このバカ騒ぎの共犯になってもらったのが、道義さんとの最初の出会いでした。
道義さんは正味の「勉強魔」で、本当に繊細かつ果敢に、古典のスコアでも私の総譜でも、一音符残さず、何一つゆるがせにせず、彼が納得がいくまで追求の手を休めませんでした。
コンクールは、一定デキ試合の面があり、最初から私のギャグ音楽は対象外でしたが、道義さんは怒ってくれました。
2週間くらいして大学に「テレビ朝日の佐藤です」と名乗る方(「題名のない音楽会」や「徹子の部屋」を担当された佐藤ディレクター・のちのプロデューサー)からお電話があり、第1回出光音楽賞というものをこれでもらうめぐり合わせから、私はプロの業界でごはんが食べられるようになったのでした。