年が明けてから、日本の重鎮音楽家の訃報が相次ぎました。
すでにお伝えした作曲家・ピアニストの藤井一興さん(1月18日ご逝去)に続けて、1月26日にご逝去された指揮者の秋山和慶先生のご訃報に接して、日本の音楽教育、ひいては日本の教育全般に、本質的な問題を考えてみたいと思います。
秋山先生は今年元日、転倒で大けがをされ、1月23日に「指揮活動引退」を発表されました。
青天の霹靂でしたが、その3日後に、肺炎でのご逝去の報。なんとも痛ましく、言葉がありません。
「斎藤メソッド」の継承・完成
秋山先生は1941年1月、東京でお生まれになり、ピアニストのお母様に手ほどきを受けて幼時から鍵盤楽器の演奏に優れた美質をお見せになられました。
青山学院の初等科・中等科に学ばれ、高校からは桐朋学園に進まれています。
私は秋山先生に師事することはついぞありませんでしたが、青山学院で小中学校時代を過ごされたのは私の父と同じで、いろいろお話する中でとても親切にご指導ただくようになりました。
かつて秋山少年は、高等学校を青山学院で上に進むのではなく、
桐朋では「ピアノと音楽の基礎に長じた指揮者の育成」という観点で、秋山先生と同級生の飯守泰次郎先生とのお2人に「斎藤英雄・理想の教育」を施した結果、表面的には正反対の形で、しかし本質は深く通じた形で、大輪の花を咲かされたと思います。
まだ私が、秋山先生を存じ上げる以前、最初のドイツ留学の折、遠縁にあたるホルンの猶井正幸さんのケルンのお家に泊めていただいたことがありました。
そのとき、桐朋のオーケストラで一緒にホルンを吹いていた猶井さんから、秋山先生がどれほど優れた良質の基礎をお持ちか、どれほど優れた美質を示されるか、といったことを微に入り細に入りお伺いし、個人としての最初の私にとっての「秋山像」が作られたと思います。
ホルンという楽器は、そもそも音を出しコントロールするのが至難です。加えて、楽譜の調性を読み替える「移調楽器」という特徴があります。
詳しく言えば、ソルフェージュ的な難も多く、立ち入ったことは記しませんが、非常に高度な能力を求められます。
秋山先生は、指揮の副科としてホルンを始められたはずでしたが、もしそのように望まれれば、ホルン奏者としても一線で活躍できる実力をハイティーンの段階でお持ちだったとうかがっています。
ソルフェージュの基礎も、極めて上質なものをお持ちだった。
そういう「基礎」の大切さを、音楽に特化せず、教育全般について本稿では記したいと思います。
秋山先生は桐朋を卒業される際、ドビュッシーのピアノ作品「小組曲」(と伺っています)をオーケストラに編曲、パート譜も作り、それを自ら初演して演奏、学校を終えて音楽の実社会生活に踏み出して行かれたとのこと。
まさに斎藤秀雄先生が目指された、完全な音楽家・完全な指揮者のカリキュラムを全うして桐朋を卒業後、師匠に代わって下の世代を指導されるようになりました。
斎藤先生が指導された2つの専門、チェロについては昭和17年生まれの堤剛さん、指揮については16年生まれの秋山先生が昭和40年代以降は指導に当たられるようになった。
「トーサイ」こと斎藤秀雄先生は昭和49年に逝去されましたが、最後の10年ほどは「師範代」として40歳ほども若い「秋山」「堤」の両雄が、さらに若い世代、あえて言えば「孫弟子」を指導するのを見届けられた。
ここに私は、伝統や伝承の本質があると思っています。
世界に名高い斎藤メソッドの指揮法は、決してトーサイ自身が「斎藤メソッド」と呼んだわけではありません。
小沢征爾さん、秋山さん以下、後進が「サイトウ」の名を冠して呼び、守り伝えた。
「斎藤メソッド」の完成者は、秋山和慶その人であったと言って、誰も否定する人はいないでしょう。