そもそも、人為的に作られた擬制としての会社が個人に代わって生まれたり死んだりしてくれることで、私たち人間は無限の経済活動の自由を手に入れたわけです。会社と個人を切り離したという所に会社の本質があるということです。
今回のフジテレビの問題を見ていると、フジテレビという擬制された存在をあたかも絶対的な実在であるかのように思い込んで語っている上記のアナウンサーのような方もいますが、少し視点を変えてみる必要もあるのではないでしょうか。
会社はフィクションにすぎない
会社がフィクションであるという本質的なところから目を逸らして、自分と会社を余りにも一体化してしまうという発想に、どこか「失敗の本質」的な危うさを感じてしまいます。
同じ「想像の共同体」であっても、ロシアとウクライナやイスラエルとパレスチナの戦争に見られるように、国の存亡は国家を構成する自然人の死とかなり密接につながっています。ですから、仮に国というものが人為的に作られたものであったとしても、そこに悲壮感が漂うのは十分に理解できます。国は国、個人は個人とはっきりと切り分けて議論することは容易ではありませんから。
今年はマスメディアにとって、銀行界の1997年に匹敵する激動の年になると思います。それ以前の銀行というのは、信用の代名詞でした。護送船団方式に守られ、組織にしがみついてさえいれば、サラリーマンとして人生の辻褄はなんとか合いました。
それが1997年以降の未曾有の金融危機を境に、組織はゲマインシャフトからゲゼルシャフトに一気に転換し、銀行員は自らの人生設計を自らの手で、そして自らの責任で描くことを求められるようになりました。
同様に、今やマスメディアの報道を頭から信じる人はいなくなりました。メディアが自らが信頼に足る存在であることを、自らの力で証明しなければならない時代に突入したのです。