法人の本質に関する法学上の理論には、法人擬制説や法人実在説など複数の考え方があります。その詳細をここで論じることはしませんが、私なりにその実質的な意味を考えてみると、会社の最大の特徴は、いったん死んでも不死鳥のように甦ることができる点にあると思っています。

 もし自然人であれば、いったん死んでしまえば生き返ることはありません。来世で別の人生を送ることができるかについては宗教観によって異なるでしょうが、とにかく現世からは離れてしまい、もはややり直しはききません。

 人間が変わるために何が最も大きいきっかけになるかと言えば、「死」と真剣に向き合った経験ではないでしょうか。「電力の鬼」と称された実業家の松永安左エ門は、人間が一人前になるためには、「闘病、浪人、投獄」のいずれかを経験する必要があると述べています。これらは、自分の存在そのものが問われる出来事だからです。

 これ以上に、死と向き合うことは、自分の存在とダイレクトに向き合うことで、それを象徴するのが「メメント・モリ」 という言葉です。これは、ラテン語で 「死を忘れるな」「自分が必ず死ぬことを思い出せ」を意味します。西洋の哲学や宗教、芸術において、死の不可避性を意識し、それを人生の指針とすべきという考え方を表す概念として使われてきました。

 自分の経験に照らしても、死と向き合ったその先の人生というのは、それまでの人生とは明らかに別のものになります。しかしながら、こうした本当に死んでしまうかも知れない経験というのは、容易にできることではありません。まかり間違って本当に死んでしまえば、現世には戻ってこられないからです。だからこそ、メメント・モリが強調されるのです。

法人は「臨死体験」が飛躍へのステップになることも

 これに対して、法人であればこうした臨死体験が、意図された形で次の飛躍へのステップになる可能性があります。法人は清算されない限り再生できるからです。

 そうした過程を経て、法人が持っている企業文化は大きな変貌を遂げ、別の人格に生まれ変わることができます。死が致命的である自然人に比べて、甦ることができる法人というのは、仕組みとしてとてもよくできているのです。

 ですから、企業文化を刷新するのがもはや困難な局面になった場合、粘りに粘って玉砕するよりは、ある程度のところでギブアップして早く次のステップに移った方が良いということもあります。経営責任のある役員はもちろん辞めなければなりませんが、従業員にとっては会社が変われる大きなチャンスでもあるからです。