なぜ田沼意次は田安家滅亡に一役買ったのか?
一方の幕府パートでは、前回に引き続き、きな臭い展開が繰り広げられた。前回記事(『べらぼう』田安家の跡取り断絶に動いた「一橋治済」とは?息子を11代将軍に据える策士ぶり/1月25日公開)を踏まえれば、理解しやすい内容だったかと思うが、なかなか複雑なので今回も解説していこう。
ドラマでは、田安徳川家の2代当主である徳川治察(はるあき)が死去することとなった。史実においては、明和8(1771)年に父の徳川宗武(田安徳川家・初代当主)が死去したために、治察が家督を継いだものの、わずか3年後の安永3年(1774)年9月8日に22歳の若さで急逝した。
本来であれば、弟である定信(幼名:賢丸、後の松平定信)が兄に代わり第3代当主となるべき場面だ。しかし、定信は安永3(1774)年3月15日に、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まっていた。定信の養子が決まって、半年以内に治察が亡くなっていることになる。まるで田安家を滅亡へと向かわせるようなタイミングであるため、前回の放送では、治察の暗殺がほのめかされていた。
実際に治察の死に何か疑惑があるわけではないが、定信の養子入りについては、一橋家第2代当主である一橋治済(はるさだ)と、老中の田沼意次の働きかけがあったとされている。
というのも、前回解説したとおり、8代将軍・徳川吉宗は、将軍の後継者が途絶えないようにと、御三卿として田安家・一橋家・清水家を創設した。
一橋治済からすれば、自身と同じ吉宗の孫で、かつ、田安家の跡取りとなり得る定信は邪魔だったのだろう。意次と結託して、定信を白河藩へと養子に出させて「田安家の跡継ぎが誰もいない」状態に持っていったのではないか、と言われている。
その結果、10代将軍・家治が亡くなると、治済の嫡男・家斉が11代将軍となる。治済が将軍の父として権勢を振るったことを考えても、定信を田安家から排除したことが功を奏したといえよう。
今回の放送では、兄の死を受けて「このままでは田安家が絶えてしまう」と考えた賢丸が養子解消を訴えるも、意次がそれをつぶすべく動いている。芸達者な平賀源内に協力してもらい、吉宗公の遺した文書に「御三卿については跡を継ぐものがいなければお家断絶とする」という一筆を加えたのだ。
聡明な賢丸ならば、この文書の怪しさには気づいたはず。しかし、周囲から白い目で見られることを考えると、予定通りに養子として出ていくほかなかったようだ。ドラマでは「今にみておれ、田沼……」と、賢丸が悔しさをにじませる場面もあった。
実際の賢丸、つまり定信は養子が決まってからもしばらく田安屋敷で居住しており、兄が亡くなったことで養子の解消を願い出たが、かなわなかった。では、意次はどうやって阻止したのか……と想像を膨らませた結果、トリッキーな平賀源内をうまく使って陰謀を張り巡らせたことにしたのだろう。
意次がそこまでして、田安家を滅亡させようとした理由はドラマで「お血筋が絶えるかもしれんという、まさかの折に備えるためだけに、3つも家を養うなど無駄の極みだ」というセリフで説明された。
実際の意次も、深刻な幕府の財政難に、積極的に手を打っている。意次の経済政策はこれから推進されていくことになるが、意次の財政改革についても、今後の連載で解説していきたい。