
どんなに安定した会社、成功した経営者にもピンチは訪れる。ヒット商品が突然、市場で通用しなくなった、資金繰りがうまくいかず倒産の危機に陥った、経営方針を巡って人事抗争が起き、社員の信頼を失った……。偉大な経営者たちもまた、そんな逆境に何度も直面している。だが、逆境に追い込まれたときにこそ、経営者の真価が発揮される。名経営者たちはピンチに直面したとき、どんなふうに考え、どんな行動によって成功をつかみ取ったのだろうか。
(*)本稿は『逆境に打ち勝った社長100の言葉』(真山知幸著/彩図社文庫)の一部を抜粋・再編集したものです。
「事業が古くなるとその五割は失敗する」(鹿島守之助)
鹿島建設の中興の祖と称される鹿島守之助が、その経営に参画したのは、40歳のときのこと。それまでは外交官として、ドイツやイタリアの日本大使館で勤務していた。
外務大臣になることを目標にしていたが、ヨーロッパへの船上で、鹿島組(現:鹿島建設)2代目組長にあたる鹿島精一と偶然の出会いを果たしたことで運命が変わる。精一に見込まれて31歳で娘婿となり、後継者として期待をかけられたのだ。守之助は1938年に鹿島組に入社し、2年後には社長に就任した。

長い歴史を持つ鹿島組だったが、守之助が起用されたときには、赤字経営に陥っていた。再建の重責を担った守之助は赤字経営の原因を分析し、得た結論の一つがこの言葉である。
「事業が古くなるとその五割は失敗する」
とはいえ、何でも新しくすれば良いわけではない。守之助は、守るべき伝統は変わらず受け継ぐ一方で、科学的な施工技術を導入。業界を牽引する総合建築会社へと発展させることに成功した。
「自分が能力も運もないことに気がついたら、ありがたいもんです」(矢野博丈)
1943年、広島県に生まれた矢野博丈は、「100円SHOPダイソー」を全国に展開する、大創産業創業者。その人生は、まさに苦難の連続だった。
中央大学在籍中に学生結婚をし、卒業後は妻の家業であるフグ・ハマチ養殖の事業を継ぐ。しかし、多額の負債を抱えてしまい、トラックで夜逃げ。以後は百科事典のセールスから、ちり紙交換やボウリング場の管理など、転職を繰り返した。

自らの手で商売を始めたのは1972年、30歳頃のこと。当初は雑貨をトラックで移動販売するというスタイルで、値段はすべて100円に均一。安いながらも少しでも高品質な商品をと、原価をギリギリまで上げることもあった。
だが、商品の評判が上がってきたときに、倉庫を放火されるという事件が起きる。失望のなか、矢野は被害を逃れた商品をかき集めて、ダメ元で大手スーパーに掛け合ったところ、初の常設店舗となる「100円SHOPダイソー」の開業へとこぎつけた。
40歳頃には、社員たちが別会社を作ろうとするというトラブルも発生。倒産の恐怖から何日間も褐色の小便が出続けたという矢野の言葉がこれだ。
「自分が能力も運もないことに気がついたら、ありがたいもんです」
絶望を知ってもなお、いや、絶望を知るからこそ、自分の進むべき道を見誤らずに歩くことができる。
