危機の訪れ
『金々先生栄花夢』が大ヒットした安永4年(1775)は、鱗形屋孫兵衛に危機が訪れた年でもあった。
同年5月、鱗形屋孫兵衛の手代・徳兵衛が重板(じゅうはん/同じものを無断で出版すること)によるトラブルを起こし、重い処罰を受けたのだ。
最高責任者である鱗形屋孫兵衛も二十貫文の罰金を科せられ、社会的信用を失った。
経営にも悪影響を与え、この年の秋に予定していた「吉原細見」の刊行もできなくなる。
その隙を突くように、蔦屋重三郎は蔦重版の「吉原細見」である『籬(まがき)の花』の出版に踏み切った。
サイズを大きくし、レイアウトを変更した、見やすくわかりやすい蔦重版の「吉原細見」は好評を博した。
鱗形屋も、翌安永5年(1776)には「吉原細見」の刊行を再開したが、天明3年(1783)には、蔦重版の独占状態となっている。