人類史の前提は何が間違っているのか?

大澤:まず「狩猟採集民が平等である」という前提を著者は疑っています。

 たとえば、トルコの「ギョベクリテペ遺跡」などがそうですが、氷河期にもかかわらず、壮大なモニュメント(巨大建造物)が見つかっています。統制のない平等な世界に、このようなものは必要ありません。

 また、こうした時代の遺跡から、プリンスのように、着飾って埋葬された遺体が見つかることがある。ところが、そこには大きな国家が存在した形跡は見当たりません。

トルコの「ギョベクリテペ遺跡」(写真:ZUMA Press/アフロ)トルコの「ギョベクリテペ遺跡」(写真:ZUMA Press/アフロ)

──小さな狩猟採集民の集団でも、ヒエラルキーが存在した可能性があるのですね。

大澤:そして著者は、狩猟採集民の時代に季節的に社会の組織形態を変える集団がたくさん存在し、むしろ、そのような形が原型だったのではないかと示唆しています。

 たとえば、獲物を狩猟することが目的で特定の季節になると、ある地域に、すごく大きな集団ができました。その集団は、警察や軍隊のようなものも備えているときもあって、ほとんど国家のようでさえあります。

 では、それは永続的な国家や都市ができたかというと、また季節が変わると、小さな集団に分散した。集団が集まった時に、一時的に統制するリーダーが現れたり、ある種の儀礼を行ったり、モニュメントを作ったりしていたようです。

 アメリカのグレートプレーンズという平原にいたネイティブ・アメリカンは、バッファローを追いかける時期になると、怠け者を統制するために警察のような強力な権力を発動しましたが、そうでない時期には平等を保っていました。

 季節によって集団の規模や内部の関係性が変化する。こうした社会に対して平等性を問題にしても、あまり意味がない。むしろ、著者2人は「どんな組織の形がいいのか」と、トライアンドエラーで見極めようとしていた可能性を語っています。

 重要なことは、かつてはさまざまな社会形態を組織する柔軟性があったのに、それを失い、私たちはたった一つの社会のあり方にはまってしまっているということです。

 この本では、なぜそのように固定された組織形態に私たちがはまっているのか、という問いを立てています。この問いの立て方だけでも素晴らしいと思います。