近代ヨーロッパの価値観によるアートとしての浮世絵評価、アーティストとしての浮世絵師評価に由来しているわけである。蔦重を含めて当時の人間にとってはまるでピンとこない褒められ方であろう(でも、こういったわかりやすい評価の仕方はいまだに続いている)。
草紙は果たして教科書に載るようなものなのか?
安永・天明期の戯作や狂歌など時代の先端を行く文芸の成立に関与し、それらを出版していったことをもって蔦重を評価することにも、上記の例と似たような違和感を覚える。
たとえば、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』や恋川春町の『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』の蔦重版黄表紙2作は高校の日本史教科書にも松平定信による出版統制の好事例として書名が載っている。「統制」がこの2作に及んだという事実は無いのであるが。
また山東京伝の黄表紙『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』の書名も戯作の代表作として文学史の教科書に載っていたりする。どれも当時の感覚から言えば、たかが青本(黄表紙)、粗末な絵本にすぎないもの、なぜそれを未来の子どもたちは覚えさせられるのか、当時の人間が知ったら不思議がるはずである。
文化・文政期頃から、ちょっと昔の江戸の草紙類を蒐集する趣味が広がる。蒐集家向けの珍書商売も始まる。現存品の多くは彼らが蒐集することによって散逸せずに済んだものである。彼ら好事家が編年体の目録を編んでいく中で、草双紙は整理され「研究」されていった。
そして彼らの成果がそのまま文学史に継承されることになって、黄表紙は近世小説の一類として位置付けられることになる。小説は文学である。日本近代において価値あるもの、高校教科書に書名が載っても不思議はないことになる。
いっぽう、同様の草紙類は上方でも制作されていた。ところが、これらを蒐集するマニアが現れないまま近代を迎えた。結果、散逸してしまったなりに文学史には一切登場しない。これらは文学ではないことになった。変な話である。上記の文芸書出版に関わる蔦重評価にも近代的価値観と歪んだなりの常識とが紛れ込んでいることを否定できないのではないだろうか。