藤原実資が日記に記した「天に二日無く、土に二主無し」の意味
このまま三条天皇の暴走を許すわけにはいかない。ドラマでは四納言(源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成)が集まって協議。そのうちの一人、源俊賢(としかた)がこんな提案をしている。
「娍子様立后の日に、中宮妍子様の内裏参入をぶつけてはいかがでしょうか。帝に左大臣様のお力を見せつける、またとない折にございます」
藤原行成は「そうまでして皆の心を試さずとも、よろしいのではございますまいか」と乗り気ではない様子だったが、道長はこの案を採用。「公卿らへの根回しを頼む」と伝えて、実行へと移している。
それを耳にした三条天皇は「ならば、時をずらそう」と対抗する。妍子の内裏参入は夜からなので、娍子立后の儀を昼から行うとした。
これならば、公卿たちは両方に参加できるだろうという目論見だったが、甘かった。道長を恐れて多くの公卿は、娍子の立后の儀には不参加を決め込んだ。ドラマでは、ごく少数が参加する中、立后の儀が行われる様子が描写された。娍子の居たたまれなさが気の毒だった。
この道長の対抗策は実際に行われたもので、長和元(1012)年4月27日付の『小右記』によると、藤原実資(さねすけ)は「大臣三人障り有りて参らず」(大臣の3人は、障りがあって参りません)と伝えられたという。大臣3人とは、藤原道長・藤原顕光・藤原公季のことである。知らせを受けて、実資は次のように書いた。
「何事かを知らず。推量する所は、若しくは今日の立后の事か。左相府を憚り、参られざる所か」
(何事かを知らない。推しはかるに、もしかしたら今日の立后の事であろうか。左大臣様に遠慮して参られないのか)
この後にドラマでもあった「天に二日(にじつ)は無く、土(ど)に二主(にしゅ)は無い」のフレーズが記述されている。「天に太陽は二つない。地に君主は二人いない」。つまり、三条天皇と道長をてんびんにかけること自体が恐れ多いことだと、三条天皇を軽視する公卿たちに苦言を呈したのである。
一方の道長は、娍子の「立后の儀」がいかに閑散としていたかをわざわざ記述として残している。同年4月27日付の『御堂関白記』に、「立后の儀」に参加した公卿は実資のほかに、藤原隆家・藤原懐平・藤原通任と、たったの4人だったことを記した。藤原通任は、娍子の弟である。
さらに「侍従は伺候しておらず、殿上人(てんじょうびと)は一人も参らなかった」とも強調。そのうえ夜に行われた中宮・妍子の内裏参入の方には公卿たちが集まり、いかに盛況だったかを書いている。
道長が自ら主催した儀式に「誰が来て、誰が欠席したのか」を細かくチェックするのはいつものことだが、この時はことさら意地の悪さが露呈している。三条天皇の「一帝二后」がよほど腹に据えかねたのだろう。